コンテンツの本文へ移動する

神奈川県発、アート・カルチャーメディア「マグカル」。ミュージカル・音楽・演劇・映画など県内のアート情報を発信します。

一柳 慧 × 大谷 能生 対談 ー 異なる世代のアーティストからみた一柳 慧 ー

一柳 慧 × 大谷 能生

左:一柳 慧
右:大谷 能生

■一柳 慧|Toshi ICHIYANAGI
http://www.schottjapan.com/composer/ichiyanagi/bio.html
1933年生まれの作曲家、ピアニスト。10代で二度毎日音楽コンクール(現日本音楽コンクール)作曲部門第1位受賞。19歳で渡米、ニューヨークでジョン・ケージらと実験的音楽活動を展開し、1961年に帰国。偶然性の導入や図形楽譜を用いた作品で、様々な分野に強い影響を与える。これまでに尾高賞を4回、フランス文化勲章、毎日芸術賞、京都音楽大賞、サントリー音楽賞、紫綬褒章、旭日小綬章など受賞多数。音楽の空間性を追求した独自の作風による作品を発表し続けている。現在、公益財団法人 神奈川芸術文化財団芸術総監督、トーキョーワンダーサイト・ミュージックプログラム・スーパーバイザー、正倉院や古代中国ペルシャの復元楽器を中心としたアンサンブル「千年の響き」の芸術監督などを務める。

 
■大谷 能生|Yoshio OHTANI
http://www.ootany.com/
1972年生まれの批評家、音楽家。96年~02年まで音楽批評誌「Espresso」を編集・執筆。以降も、菊地成孔との共著『憂鬱と官能を教えた学校』や、単著の『貧しい音楽』『散文世界の散漫な散策 二〇世紀の批評を読む』を上梓するなど、積極的に執筆活動を行う。その傍ら、音楽家としても精力的に活動し、sim、masなど多くのグループに参加。ソロ・アルバム『「河岸忘日抄」より』、『舞台のための音楽2』をHEADZから、『Jazz Abstractions』をBlackSmokerからリリース。映画『乱暴と待機』では音楽を手がけており、「相対性理論と大谷能生」名義で主題歌も担当した。演劇やコンテンポラリー・ダンスの舞台などを含め、さまざまなセッションで演奏を行っている。

 
 
text : 井上 明子
photo : 西野 正将
 
戦後から現在に至るまで、日本とアメリカを行き来し、音楽を通して常に新しい表現を追求し続けている一柳慧さん。様々なジャンルのアーティストと親交をもちながら独自の表現活動を展開し、生誕80周年を迎えた現在もなお、精力的に創作活動を続けている。一方で大谷能生さんは、高度経済成長を経た日本に生を受け、同じくクロスジャンルな活動を展開。著書では記録メディアが誕生して以降の20世紀の音楽批評について象徴的に言及するなど、社会と音楽の関係にも独自の視野をもっている。この、世代は異なるが共に同時代を生きる2人の音楽家の対談を通して、その時代が内包している空気感とともに、新たな視点からの一柳慧像が見えてくることを期待したい。
 
 
 
大谷 能生(以下 大谷):はじめまして、よろしくお願いします。(「アラザルVol.3」【ハードコア・インディペンデント批評誌。Vol.2では大谷能生、Vol.3で一柳慧が特集されている】を指差して)こちらで、僕、一柳さんの前の号でインタビューされているんですよ。非常に長いインタビューで、読み応えがあります。対談のお話がくる前からこちらは読ませていただいていたので。
 
一柳:いえいえ、そんなの読まない方がいいかもしれませんよ(笑)
 
大谷:あと「日本の電子音楽」という本の立ち上げにも関わっておりまして。何本かのインタビューを、僕も行いました。
 
一柳:だけどあれは、本当にびっくりするみたいな詳しい本ですね。
 
大谷:日本の電子音楽の黎明期、つまり70年代までに、どういった作品が生まれて、どのように需要されてきたのかということに関して、僕たちが調べはじめたのは1990年代なんですけど、その頃ほとんどまとまった情報がなくて、例えば一柳さんの「エロス+虐殺」【監督:吉田喜重/音楽:一柳慧】の音楽であるとか、そういった80年代以前の日本の音楽を、一つ一つ調べてアーカイヴしていたんです。やっとここ10年くらいで、50年代や60年代の情報がでてきて、このように実際にお話を伺えることができるようになってきました。
 
アラザル 日本の電子音楽 エロス虐殺
左:「アラザル」vol.3   中:「日本の電子音楽」川崎弘二 著   右:《エロス+虐殺》  監督:吉田喜重  音楽:一柳 慧
 
 

生(なま)の音楽/録音された音楽

ーそのフェスティバルで初めてアメリカの音楽を演奏しようという話がでたことがきっかけで、私は61年に日本に帰国したんです。ー
 
大谷:ちょうど90年代くらいに、僕はまだ20代だったんですけれども、とにかく日本の前衛音楽を聴こうと思ったときに、音源の再発もまだ進んでいなくて、聴くことができなかった時期が長かったんですね。
 
一柳:そうですね、90年代の頭頃までは、どちからかというと日本が右肩あがりだったせいもあって、生(なま)が多かったんですよ。僕らは生の環境の中でずっと育ってきているので、逆に今の方がうまく対応できてないところもあって。
 
大谷:あら(笑)
 
一柳:そうなんですよ(笑)
 
大谷:今はクラシックの音楽家の方でも、音楽を生でとらえるよりは、先に再生物で聴く感覚がすごく強くなってきていると思うんですけど…
 
一柳:今はそうですね。しかしそれは聴覚感覚の退化を招きませんか。LPの時代っていうのがしばらくありましたけど、ちょっと聴いたときにはLPよりCDの方が音質がクリアで、喜んでいた評論家なんかもいたんですけど、CDだとそこで何が起こっているのか、つまり耳には快いかもしれないけど、どんな風に演奏されているのかってことがわからないんですよ。例えばバイオリンを弾くときにボーイングをどうやって弾いているのかとか、そういう細かいことがLPだと聴こえるんです。今もヨーロッパに行くと、まだCDよりLPを売って いる店が結構あります。日本はまずそういう状況ってほとんどないですよね。
 
大谷:そうですよね、CDも売らなくなってきたって聞いてますからね。
 
一柳:でもまだアメリカに比べたらいいほうですけどね。
 
大谷:アメリカはほとんどCDを売らなくなってきていますよね。僕がちょうどCD世代で、小学生の頃にメディアが切り替わったんです。それから30年くらいでまた違うメディアに遷っていくという状況になっちゃってるなぁ…と思うわけですけれども、一柳さんが音楽をはじめた頃、レコードは出回っていたんですか?
 
一柳:いや、日本ではごくごく限られてましたね。僕らの子供の頃っていうのは、何しろ戦争の傷跡が非常に大きかったわけですから、物がほとんどなくなってしまっていた。楽器もない、楽譜もないとか。まあ、そういう時代ですからね、音楽をやっている人数が少なかったし、ご存知だと思いますけど、あの頃あったホールの数なんて3つくらいですよ。
 
大谷:
 
一柳:大ホールは日比谷公会堂だけでしたから。それでも、かえってホールが少ないせいもあったかもしれないですけど、結構熱気はあったし、いつもお客さんはいっぱいで。今はやたらにできちゃって、どうやって内容を埋めていこうかっていうことの方が空疎になってしまっている。僕らの世代は両方知ってるものだから、この転換ていうのが、なかなか受け入れるのが難しいんですよ。
 
●1_ichiyanagi_ootani_2
 
大谷:でも埋めるのが大変っていうのはなんか変な感じがしますね。
 
一柳:非常に変ですよ。だいたいこんなにきれいなホールが沢山ある国なんて他にないですからね。この間もウィーン・フィルの連中がきて話していたんだけども、むこう3年間のオペラとオーケストラのコンサートの切符は完全にSOLD OUTだそうです。
 
大谷:おー、むこう3年間ですか。
 
一柳:でもやってる場所がみんな古いんですよ。内容を大切にしているので、モーツァルト・ザールとかシューベルト・ザールとかシェーンベルク・ザールとか立派な名前は就いていますが、ホールは本当にもうロフトみたいなところでやってるわけですからね。
 
大谷:新しくホールを作らないですよね。
 
一柳:そっちの方にあんまり関心がないみたいですね。
 
大谷:そうですね。先日、「実験工房展」に行ってきたんですけど、実験工房の人は1951年から58年頃に活躍されていて、ちょうど、その時期にほとんどすれ違いのような形で、一柳さんはNYにいかれた感じですよね。
 
一柳:そうですね、実験工房の立ち上がりの頃のことはほとんど知らないですね。
 
大谷:今の世田谷美術館があるあたりで、みんな歩いて友達の家に遊びにいって、道で興味のある人をみつけたら友達になって、作品を交換するというような交流がおもしろいなと思いました(笑)
 
●2_ichiyanagi_ootani_8
 
一柳:そうですね。歩いて出会って交流するのが日常でしたから。実験工房に少し遅れて、評論家の吉田秀和さんが立ち上げた「20世紀音楽研究所」っていうのがあって、毎年場所を変えてフェスティバルを企画していたんですが、そのフェスティバルで初めてアメリカの音楽を演奏しようという話がでたことがきっかけで、私は61年に日本に帰国したんです。
 
大谷:ちょうど吉田秀和さんが NY・ヨーロッパを回っていたころが53年くらいでしたけども、NYではお会いにならなかったんですか。
 
一柳:ちょっとすれ違いだったようですね。でも、園田高弘さんや黛敏郎さんにはお会いしました。
 
大谷:確かジョン・ケージがヨーロッパに紹介されるタイミングが54~5年だったと思うんですが。
 
一柳:そうです、54年ですね。
 
大谷:吉田秀和は、ケージの音楽というのは当時やはり相当受け容れ難かったというふうに書かれていましたね。
 
一柳:ええ、そうですね。でも54年頃にヨーロッパツアーをしたことで、随分向こうの人も開かれて、それからブーレーズとかシュトックハウゼンたちとすぐに交流がはじまったということです。
 
 

東洋と西洋 その中間に立って・・・

ー ケージが62年に最初に日本に来たときにまず言ったのは、鈴木大拙のところに行きたいということでした ー
 
大谷:日本では、特に一柳さんの帰国と同時にケージの音楽が紹介されるわけですけれども、まだその時期までは、現代音楽の場合は先に先に新しいスクール、または新しいメソッドがあるという時代が残っていたと思うんですが、やはりケージの音楽を舞台上で演奏する際に、新しいという感覚でとらえられていたのかどうか、また観客がどのような感覚で受け止めたのかなどが資料を読んでいてもわからなくて、その辺の感覚を教えていただきたいです。
 
一柳:あの時代というのは、音楽を目指している人もそれから観客の人も、戦争のあおりでいわゆるハングリー精神が漲っていた時代なので、そういう意味では日本も今から思うと珍しく開かれた自由な時代だった。ですから、みんな関心が高かったですね。ただ、ヨーロッパは少なくとも音楽の点では、そういう受け取り方をほとんどしてないと思いますね。
 
1950年頃から、鈴木大拙がNYのコロンビア大学で禅を教えていたんですが、禅っていうのは、大拙の言葉を借りれば「今ここにあることがすべてだ。」つまり、何もしていなくて今ここに存在している、そのことが一番大事だということを言っているんです。ケージの音楽はそれを哲学にしていて、そこからグラフィックスコアやなんかを創造して具体化した。それは、ヨーロッパの人にとっては最初は非常にわかりにくいことだったと思いますね。
 
日本も、戦後は日本的なものに対する反発がかなりありましたから、先端的なものに対する理想像やハングリー精神みたいなものはあったんですが、むしろそういう日本的な観点は切り捨てに近い感じでした。私は、西洋と東洋をいかに共存や相互浸透させられるか、という立場に立ってしまったものだから、なかなか禅一筋のようには徹底できなかったですね。
 
大谷:その時にケージの音楽というのは、アメリカ音楽として日本に紹介されたと思うんですけど、禅に基づいているという情報または印象というのは、当時の聴衆はどのくらい受けたんでしょうか。
 
一柳:これは私の認識なんですけれども、ケージを一番古くから大事な作曲家だということで、文章を書いたり交流もなさっていた評論家の秋山邦晴さんと私は、どうしても今言った一点では話が合わないということがありました。
 
大谷:その辺りをもう少し…(笑)
 
一柳:まさにね、秋山さんは日本的なもの、禅的なものとかを完全に排除したヨーロッパの前衛的な観点からのケージを評価していたんですね。私はどうも、それだけではちょっと違うのではないか…。というのは、私はケージの弟子ということになっていますけれども、彼のやり方っていうのは、一緒に行動をする、一緒に音楽会をする、一緒に作曲の手伝いもする、さらに生活もしばしば一緒にという形で、彼の考えていることの一端にこちらも入りこめる教育だったものですから、普通の音楽教育とは違った環境に彼とともにいた中で、やはり日本の問題というのは大事だという認識がだんだん深まっていったんですね。
 
●3_ichiyanagi_ootani_5
 
大谷:なるほど。それはやはり、一柳さんがアメリカに移られて、そちらからみた日本という距離の取り方がその時期に芽生えてきてということだったんですか?
 
一柳:そうですね。
 
大谷:秋山邦晴さんの当時の批評を読んでいると「洋楽を取り込む」というものすごいどん欲な意識があるように感じます。
 
一柳:そうですね、それは大事なことで、やっていただいて非常によかったんですけども、私は大分長い間日本を離れていたので、欧米とは異なる日本の文化芸術の考え方や特徴に関心を深めていったのも事実です。
 
大谷:取り込むって思ったら「日本のものだ」ってこられる感覚が、60年代当時には衝撃的だったという感じが文章にも表れていました。当時の文献を読んでいると、ケージのことを「東洋思想に基づく」というような大雑把な言い方をしているんですが、日本の聴き手に対してはっきりと、禅であるとか公案【禅宗において修行者が悟りを開くための仮題として与えられる問題のこと】であるとかいうアピールはしていなかったのかな…という感触を受けたんですけど。
 
一柳:日本の社会は縦割りですから、芸術と生活が遊離しているせいかもしれませんね。アメリカでは禅も生活の一部として把握されていますから。ケージが62年に最初に日本に来たときにまず言ったのは、鈴木大拙のところに行きたいということでした。それで私が鎌倉の東慶寺にお連れしたんですが、その当時大拙は92歳でしたが非常に闊達としていました。それで、本当にね、あれはなんていうのかな…ケージが、完全に…
 
大谷:「師匠…!」みたいな感じで(笑)
 
一柳:そうそう「師匠!!」って感じでね(笑)そして、大拙は堂々としていましたよね。英語ももちろんぺらぺらだし。余談だけど、そこへ行って一番びっくりしたのはですね、20代中頃のすごい美女が、大拙の秘書のような感じでいたんですよ。「これは何者だ?」と思ったんですが、12歳からニューヨークで大拙の禅に傾倒して、大拙が日本に戻って来るときに一緒についてきた方だそうです。
 
大谷:おー!
 
一柳:今、まだいらっしゃいますよ。こないだね、50年ぶりくらいに京都でお会いしました。今も非常に美女ですが厳しい方です(笑)
 
一柳:ケージにとっては大拙から学んだいろんなことを、自分の音楽に取り入れて、その後の作品に全てそれが投影されているという感じですから、まず一番に会いたかったんだろうと思いますけど。その時が最後になりましたね。大拙は96歳で亡くなりましたから。
 
●5_ichiyanagi_otani_1
 
 

時代が与えた影響

ー NY全体が学校みたいな街ですからね。あともう一つは、ジュリアードに12音技法を教える先生が1人もいなかったんです ー
 
大谷:ケージは青年期が大不況の時代で、若い頃の話などを聞いていると、アルバイトをしながら作曲家をめざし、シェーンベルクに就き、その間いろんな発見を通して大拙の禅に触れるという流れがあったと思うんですけども、同じように一柳さんの時にも、50年代後半のNYというのと、60年代の日本という時代に、アメリカのジュリアード音楽院に通われ、ケージという存在に出会い、そしてまた日本に戻ってくるという流れの中で、そこで勉強されたことに対する時代の影響やその当時のエピソードのようなものがあったらお聞きしたいんですが。
 
一柳:アメリカの音楽界っていうのは、日本でいうところの楽壇(オーケストラ・オペラ・音楽学校)と、大学付属の音楽部、それからどこにも属さないフリーランスの人たち、この3つがはっきり分かれているんです。例えば日本だと、武満徹さんは70~80曲くらい映画音楽をつくっているし、黛さんや林 光さんも沢山つくっていて、ある意味で特定の監督との結び付きも非常に強い。ですが、例えばハリウッドであれだけの映画が作られていても、一回映画のほうに足を踏み込んだ作曲家は、楽壇や大学教授に迎えられるなんてことはないんですよ。そのくらいはっきり芸術音楽と区別あるいは差別してるんですね。
 
大谷:アカデミックなものとポピュラーなものの区別、つまりある種のヒエラルキーというものがはっきりしていたと。それは50年代の頃もですか?
 
一柳:50年代ももちろんそうですね。今でいうと、例えばスティーブ・ライヒが最近日本に来ていましたけど、彼は絶対にオーケストラプレーヤーは使わないですよね。 だから、自分で選んだ人たちのグループでやってるんですよね。それはそれで、フリーランスでも成り立つような社会ができてきますしね。
 
大谷:マース・カニングハムのダンスカンパニーっていうのも独立したカンパニーとして興行を行っていたんですか?
 
http://www.youtube.com/watch?v=yOAagU6cfBw
マース・カニングハム・カンパニー   音楽:ジョン・ケージ  Variation V   1966年
 
一柳:僕はダンスの内情っていうのはよくわからないけども、最初から最後まで一貫していたんじゃないでしょうか。ダンスも、カニングハムはモダンダンスで、その前にモダンバレエがあったりとか、その後はコンテンポラリー・ダンスとか。
 
大谷:モダン・ダンスはマーサ・グラハムのところですね。
 
一柳:そうです、かなり細分化されてますよね。
 
大谷:グラハムまではまだクラシックの音楽の人が使われていたんですか。
 
一柳:当時の主にアメリカの現代音楽の作曲家たちですね。
 
大谷:映画と一緒で、コンテンポラリーダンスに対する仕事っていうのは、楽壇または大学の人でもやらなかったんですか?
 
一柳:ダンスはどうだったかなぁ。でも、少しいますね。私の印象では、現代のダンスの人たちは現代作曲家の音楽を使っていて、ダンスと音楽が同じ時代を歩んでいるという感じが強かったです。
 
大谷:映画に比べればステージ芸術ということである程度は認められていたんでしょうか。
 
一柳:ダンスは音楽や演劇と並んで、あちらではパフォーマンス・アートの重要な一貫と言っていいと思います。その点では、ダンスは新しくても、その音楽はクラシックやポピュラーが使われる最近の傾向に、私はやや違和感を覚えますね。
 
大谷:一柳さんはアメリカで活動をはじめられたのがジュリアード音楽院からですが、楽壇に入ろうという意識が多少はあったんですか。
 
●4_ichiyanagi_ootani_6
 
一柳:いや、私はとにかくNYへ行きたいという気持ちがあって、外国人だとビザのためにどこかに所属してないとだめなんですよ。一番簡単にできるのが学校だったので。でも、ほとんど学校なんていかなかったですね(笑)
 
大谷:なるほど(笑)
 
一柳:NY全体が学校みたいな街ですからね。あともう一つは、ジュリアードに12音技法を教える先生が1人もいなかったんです。
 
大谷:え!そうなんですか…!
 
一柳:そう。だからその姿勢からみてもわかるんですが、特にフリーランスの人たちは排除されていましたね。
 
大谷:アメリカでもそうなんですね。ヨーロッパのほうでそういう話はよくきくんですけど…。そうした中で、ジュリアードの方向よりはフリーの作曲家としてやって行かれる決心をされたのは日本に帰ってくる前なんですか?
 
一柳:私はジュリアードに入った頃から、12音技法を用いて曲を書いていましたから、ジュリアードではピアノだけはしっかりやりましたね。
 
大谷:ピアニストとしての方向もそれほど興味がなかったんですか?
 
一柳:やっぱりどうしても作曲の方に重点がかかってますから、それほど時間がとれないですね。
 
大谷:なるほど。もともと、作曲を勉強しようと思って留学されたということですものね。
 
一柳:はい。これも悪い意味だけではないと思うんですけれども、やはり演奏家っていうのはかなりアスリートと似ているところがあって…。
 
大谷:はい(笑)
 
一柳:なぜやっているかとか、そういう事はほとんど問わないですよね。
 
大谷:そうですね、プレーヤーは曲を考えなくても弾いていますからね、基本的には。
 
一柳:そうですね。大谷さんのCD《Jazz Abstractions》、あれは非常に面白いですね。今もライブでおやりになっているんですか。
 
大谷:《Jazz Abstractions》はほとんどコラージュで、既存音源を使っていろいろまとめた音楽です。僕はサックスプレーヤーなので、生演奏のジャズライブもしているという形で、何個かバラバラにやっています。あと曲も書きますし。舞台と劇伴みたいな仕事がよくくるので、そのたびごとにいろいろ工夫して音楽をつけるという仕事と、いわゆるブラック・ミュージックのポピュラー音楽としての流れの中のジャズ、ソウル、HIPHOPのような音楽と、あとはインプロヴァイザーとしてエレクトロニクスとサクスフォンで演奏するという即興演奏、そういったジャンルでやっています。
 
jazzabstraction
《Jazz Abstraction》 大谷 能生 2012年
 
一柳:いつもメンバーとか人数とかは決まってるんですか?
 
大谷:自分のバンドだけ3人でやってるんですけど、それは固定であとは行ったり来たりでいろんなところで…。先日は赤レンガ倉庫で舞踏の室伏鴻さんと一緒に組んで、室伏さんの舞踊と僕の音楽で作品を作ったりとか。
 
一柳:そういうのは楽しくていいですよね。そうすると、かなりオリジナルな形で活動されているんですね。
 
大谷:そうですね、がんばってやっていこうと思ってます(笑)
 

ブラック・ミュージックとの接点

ー 実は、ケージに一番最初に正式にあったのは、ヴィレッジ・バンガードだったんですよ ー
 
大谷:50年代ですと、特にNYではモダンジャズが一番盛り上がってきたタイミングであったかと思うんですが、ジャズのビバップのサウンドっていうのは、当時一柳さんの耳にはどのように聴こえていらっしゃいましたか。
 
一柳:時々ね、NYにあるヴィレッジ・ゲートとか、ヴィレッジ・バンガード【アメリカ・ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに所在するジャズクラブ】みたいなところに行ってはいたんですが、それに行く機会をつくってくれたのが、ケージと一緒にやっていたテュードアなんですよ。彼がそういうところで演奏会をやっていて。
 
大谷:テュードアが!?
 
一柳:実は、ケージに一番最初に正式にあったのは、ヴィレッジ・バンガードだったんですよ。
 
大谷:ヴィレッジ・バンガードだったんですか!!
 
一柳:58年頃、ヴィレッジ・バンガードでテュードアがリサイタルをやったんですよ。もちろんそれまでそこでは、そんな音楽を誰もやってなかったんだけど、それをきっかけに、少し出入りしやすくなったんです。ただ私への影響っていうのは、そちらにあんまり時間が割けなくて。何故かというと、その頃はアメリカがほとんど唯一の戦勝国で、ヨーロッパから非常に多くの音楽家が流れてきて、そういう人たちとのつきあいが多かったっていうのがありますね。だから私はどちらかというと、ジャズよりも60年代に入ったあとに、ロックの方と現代音楽ですね(笑)
 
大谷:《オペラ 横尾忠則を歌う》とかですね。
 
横尾忠則
一柳 慧 作曲 《オペラ 横尾忠則を歌う》 1969年
 
一柳:言葉としては、ロックもジャズもプログレッシヴっていう言葉を使いますよね?
 
大谷:ジャズの方では、プログレッシヴという言葉が一瞬、例えばスタン・ケントンの後半であるとか、サード・ストリーム【クラシックとの融合を図ったジャズ のムーブメント】っていう言葉とほぼ同じくらいの感じで、ガンサー・シュラーであるとかがプログレッシヴ・ジャズって言いはじめたんですが、それは結局定着しなかったですね。
 
一柳:なるほど。セシル・テイラーはどういうふうに形容されるんですか?
 
大谷:セシル・テイラーは、出始めのころはプログレッシヴ・ジャズというくくりで捉えられていたんですけど、オーネット・コールマンが出て以降は、その辺りが黒人音楽の先鋭みたいな形で、フリージャズっていう言葉になって、そのときにプログレッシヴ・ジャズという言葉がが切り捨てられてしまったということがありました。
 
一柳:なるほどね。
 
大谷: 50年代半ばから後半、アレンジをしっかり重視して、アンサンブルで、12音を含めてっていうような、現代音楽とジャズの融合みたいな形がその頃ちょこちょこでてきていて、それはどちらかというとヨーロッパ側からとりにいったジャズのイメージという印象が強かったですね。
 
大谷:ブラック・ミュージックの観点から言うと、いわゆるアメリカのポピュラー音楽であるスイング・ミュージックというものがしっかりあるとして、1940年代から50年代にかけて即興演奏が主体で、お互いにやりあうバトル性が強いビバップという音楽がでてきたと思うんですが、50年代のアメリカでその2つの違いというものを認識したご経験などはありますか。
 
一柳:うーん、あの頃は何をしていたかな…。特に美術の人たちや舞踊家との付き合いが多かったもので、逆に音楽のほうはちょっと手薄になっていたんですよ。
 
大谷:なるほど(笑)
 
●8_ichiyanagi_ootani_9
 
一柳:それと、これはちょっとすんなり意識した上でではないんですが、さっき言ったようにどうしても各音楽にはボーダーがあったので、そういうものを美術っていうのは飛び越えて次々と新しいものを生み出していて、フリーランスの音楽家たちが、そちらからの影響をものすごく受けていました。
 
大谷:そうですね、ジャクソン・ポロックの最盛期でもありますしね。
 
 

様々なフィールドで活動すること

ー あの夢がもう一度起こるといいなっていうふうに思っています ー
 
一柳:今の日本の若い人たちって、割合と大谷さんがやっておられるようなやり方に近いというか…。といっても高橋悠治さんなんかもそうですよね。来月開催するコンサート【東京文化会館で一柳さんの生誕80周年を記念して開催されるコンサート】で、彼にも出演してもらうんですが、彼も今の大谷さんの忙しさに似てもの凄い忙しいんですよね。舞踊家とはやってる、詩人とはやってる、もうね、いろんな人たちとやっていて、極めて精神状態もいいみたいです。楽しそうで。
 
80thコンサート
「一柳 慧 80th FESTA!」フライヤー
 
大谷:コンポーザー・プレーヤーで楽器が弾ける方っていうのは、いろんな人とやる機会が増えるから健康にはいいっていうか(笑)
 
一柳:そうそう、そうだと思いますよ。
 
大谷:だいたいあるジャンルの中だけでやるようになっちゃうのが僕の世代でも多いですし、僕もアカデミックな教育はきちんと受けてないので、必然的に演劇であるとか文学の人であるとかとやるしか場所がないっていうこともありますし。
 
一柳:でもそういうやり方っていうのは、開かれていく可能性が非常にあると思いますね。
 
大谷:そうですね、やっぱり面白そうな人とやるっていうのが基本になってくるので。
 
一柳:僕が一番嫌いなのは、分業化されて全部縦割りになってしまうこと、それとシステムが非常にがっちりできて来たこと。それはメリットもあることはあるんだけど、やはりそのために自由に動ける場が非常に限られてしまったというのがあるんですよね。
 
大谷:それが当然みたいに思ってる。
 
一柳:うん。
 
大谷:プレーヤーでもそういうふうに思ってる人が多い。ジャズの人もそうですけど、同世代のクラシックの人は全然つきあってくれないというか…。演劇とダンスのシーンが割とここ数年とてもおもしろくて、そういうところにいろんな人が関わればいいのになって思うんですけど。
 
一柳:演劇もそうだし舞踊もそうだし、音楽もそうなるといいのですが、数少ないパフォーミングアーツの中で、音楽だけがちょっと、非常に頑なで。みんなすごく上手なんだけど、さっきいったようにアスリート的になってきて、融通がきかなくなっているってところはありますよね。この間、三輪眞弘さんにも会ったんです。彼も、いわゆる音楽界からちょっとシフトしてきたみたいで。
 
大谷:なるほど、シフトしてきた。
 
一柳:やなぎみわ「ゼロ・アワー 東京ローズ最後のテープ」を観た時に会ったんですけど、彼女(やなぎみわ)も美術から演劇にシフトしたって聞いてちょっとびっくりしましたけどね。
 
大谷:今一番演劇が、ミクストメディアでいろんな可能性がまだまだあるなと思っていて、そう思うとやっぱり一緒にやりたくなるんですけど、50~60年代のNYもそういう感じがやっぱりすごくあったんですか?
 
●10_ichiyanagi_ootani_3
 
一柳:そういう雰囲気に近かったと思いますね。ただね、私がちょっとびっくりしたのは、61年に帰って来た頃っていうのは、場所は限られていたと思いますけれども「草月アートセンター」というのがあって、そういう意味ではあそこだけは本当に自由でしたね。
 
大谷:いろいろとお話には聞いています。資料をみると、サム・フランシスの絵画があってっていう。
 
一柳:前の草月ホールっていうのは片方がサム・フランシスで片方がマチューかな。あの夢がもう一度起こるといいなっていうふうに思っています。
 
大谷:そうですね。話に聞いていると、こんなに色んなことをやってていいのかっていう。
 
一柳:そうなんですよね、あれは本当に不思議でしたね。
 
大谷:草月は、50年代後半から60年代いっぱいですかね。
 
一柳:むしろ60年代前半のほうが盛んでしたね。今、アメリカからやたら60年代の問い合わせがくるんですよ。各学校でアーカイヴつくったり、グラフィックなものへの理解を深めるために、60年代のものが演奏できるような人を呼んで演奏会をしたりしてるんです。
 
大谷:多分、全世界的に60年代から70年代初頭っていうのは興味が高まってますよね。実験工房展とかも以外と人がきてるみたいですし。こないだもテープ音楽再現コンサートとかもやっていて、満員でしたね。
 
 
次ページは一柳作品について>>>
 

 

一柳作品について — 西洋の知恵と東洋の知恵、それを相互に浸透させること −

 
大谷:今回いろいろ資料をお借りしてあらためて聴き直させていただいたんですが、「千年の響き」の考え方―大仏開眼まで戻って考えた方がいいという感覚であるとか、また、こちらのアルバム《交響曲第8番—リヴェレーション2011》も非常に聴き応えがあり、西洋的なものの時間の作り方と、東洋的なものの把握の仕方を、混ぜるわけではなくて…
 
一柳:時間と空間を相互に浸透させるっていうか。
 
大谷:はい。一つ一つ確認しながら聴いていたんですが、いろいろ聴いて行く中で様々な感覚についている時間、文化についている時間など何種類もの感覚が異なった時間があり、それを一つの作品に浸透させる、ということをずっと行われているんだということがとても興味深く感じました。具体的にどのような方法でやられているのか、また、東洋的な時間の把握というのを五線譜に記して、それをはじめてプレーヤーが読む時のやり取りに関するこれまでのご経験などもお話しいただけたら嬉しいです。
 
千年の響き  リヴェレーションズ
右:《千年の響き》  左:《交響曲第8番 リヴェレーションズ 2011》
 
一柳:確かに今おっしゃったように、時間の要素っていうのはすごく大事なんだけども、基本的に時間で音楽を考えるっていう構造は、やはりどうしても西洋的なものに支配される。それは決して悪いことではなく、彼ら(西洋の人)にとっての長い間の必然性のもとに確立されたものですし、またそれがいろんな意味で壊されたりとかしながら前進してきたところはあるんですが。例えば、日本人がもっている無常観というのは、さほど意識してるわけではなく、むしろ潜在意識的にみんなが持ってるものだと思います。それを、西洋的な言葉に一回置き換えないと、西洋の人には何のことかわからないでしょ。
 
●9_ichiyanagi_ootani_1
 
一柳:東洋あるいは日本の、芸能的なものも含めたもののあり方が、先生が弟子に教えるということを通して非常に感覚的に物事を処理するという特徴がありますが、それを一度、感覚のレベルではなくて、もうちょっと哲学とか論理とか背景に置き換えてどう捉えることができるかということを考えること。そのことが、明治以来、西洋が日本に教えてくれた一つの大事なことだと思っているんです。その意識が高まってくると、今までの曖昧さが、曖昧でなくなっていく。
 
大谷:先生・弟子という形ではなく、広くテキストとして外でみんながそれを読めるものというか…
 
一柳:私が基本的にやっているのが、時間と同時に空間も相互に浸透させるということ。これは、私はどっちかというと日本の建築とか庭園とかそういうものから学んだんですね。非常に見事に時間と空間両方が共存している。それを、音楽に転換できればどうなるだろうかと思ってやっていますね。
 
一柳:僕は特にヨーロッパ圏の国に行ったときに、レクチャーやトークをしなくちゃいけないとなった時、いつも下手な英語を使ってるわけだけれども、英語でやるとなると曖昧な部分をきちっと整理して説明しなきゃいけないし、なんとか向こうの人に伝えられるようにしないとっていうことで、逆に自分の考え方を整理することにも結びつけられる。
 
大谷:日本人同士でも、生まれ育ちが違うと一つずつ相手にわかるように言葉を変えながら話さないと伝わらないけれども、そういう感覚が抜けてくると殺伐としてきちゃうっていうか、やっぱりお互い相手の言葉でしゃべる練習をきちんとやっていくことはすごく大事ですよね。
 
一柳:あとはやっぱり自然とのつきあい方っていうのかな、特に日本は非常に顕著にそれが時間に投影されていると、そういうふうに思いますね。
 
大谷:そうですね。僕も、テキストに書いて固めてしまえば、それをよその国に持って行ってそこでも同じことができるっていうのが、ヨーロッパ文明が発明したすごいところだと思うんですね。しかも、音楽は身体の中から話せて、(楽譜という形で)人に渡せるっていう大発明だったと思うんですけど、その“功罪”は、”罪”のほうよりも”功”のほうが多分大きかったと思うんです。
 
●7_ichiyanagi_ohtani
 
大谷:書いて、読んで、それをみんなで直して、というように身体から一回切り離したものをもう一回演奏する時に、読んでやるという作業がクラシックでは未だにずっと続けられていると思います。クラシック音楽の場合だと、紙に書かれた物が作品であるという感覚がプレーヤーの方にも強くあると思うんですけども、その辺りはどのようにすればそうじゃない形での音楽の捉え方ができるんでしょうか。
 
一柳:随分大勢の音楽を勉強する人が日本に留まらずに、外国にいくじゃないですか。“功罪”っていうのはまさにその通りで、音楽とか美術とかのような言葉をそのまま表現に使わない分野は、その物が持っているものから発想するという説得力=具体的なものを持つべきだと思うんです。さっきウィーンの連中が向こう3年間チケットが売り切れだと言いましたが、あの連中の練習の仕方を聴くとそれがよくわかるんですよ。会話したり、相談したり、いろんなことが音でもって成立してるわけです。
 
大谷:完全に具体的なんですね。
 
一柳:言葉の力を借りてない音の実体とか実存性ですね。
 
大谷:それがあった上での紙のやりとりが、当然になるといいってことですよね。日本の場合は、それがないままで紙を使ってやりますってなりますもんね。
 
一柳:そうなんです。そこのギャップがあるんじゃないかという気がしますね。
 
大谷:僕は、ジャズプレーヤーなんですけども、ジャズミュージックの場では人それぞれの固有の音色がなければやる意味がないという中で、手作りでつくっていくのがすごく魅力なんです。でもやはりジャズももう教えるものになってきていて、大学の勉強の中にも入っていて「即興演奏っていうのは、こういうときにはこういうスケールを使います」みたいな。そういう教育をみているとあまり魅力が…
 
一柳:邦楽なんかもそうですよね。だんだんヨーロッパ音楽にすり寄ってくる感覚があるんですよね。
 
大谷:具体的じゃなくなっちゃったら全然おもしろくなくなっちゃいますもんね。
 
一柳:そうですよね。いや、今度是非、生を。また機会があったら聴かせていただいたり、見せていただいたりしたいと思ってます。
 
大谷:横浜でちょこちょこやっておりますので、是非よろしくお願いします。
 
 
●11_ichiyanagi_ootani_11
 
 
 
最後まで読んでいただきありがとうございました。
 
 
■ 一柳 慧さんの80周年記念コンサートが東京文化会館で開催予定!
〈この公演は終了しました。〉
作曲60周年記念演奏会 一柳慧 80th FESTA!
日時:2014年1月15日(水) 開場18:30  開演19:00
会場:東京文化会館 小ホール
チケット情報:自由席  前売り:4,500/当日:5,000 学生・シルバー(65歳以上):2,000
詳細 http://www.camerata.co.jp/concerts_events/detail.php?id=116
 
 

あなたにおすすめの特集記事

NEW

「第3回神奈川かもめ短編演劇祭」、ついに開幕! そ…

1月25日(木)〜1月28日(日)の4日間、K...
1月19日公開

続きを読む:「第3回神奈川かもめ短編演劇祭」、ついに開幕! そ…

第3回 神奈川かもめ短編演劇祭の招待券 全6公演3組…

神奈川かもめ短編演劇祭は、2016年に始まった、20分以内...
1月10日公開

続きを読む:第3回 神奈川かもめ短編演劇祭の招待券 全6公演3組…

Ryu Mihoの『Woman in Jazz♡』第5回 Minton House …

1975年創業。横浜中華街にほど近い、山下...
1月4日公開

続きを読む:Ryu Mihoの『Woman in Jazz♡』第5回 Minton House …

平成29年度(第66回)神奈川文化賞・スポーツ賞の贈…

 11月3日(金曜日)文化の日に、神奈川...
12月28日公開

続きを読む:平成29年度(第66回)神奈川文化賞・スポーツ賞の贈…

冬のロマンティックミュージアム・ライトアップが楽…

いよいよ今年もクリスマスシーズンが到来ですね。紅...
12月16日公開

続きを読む:冬のロマンティックミュージアム・ライトアップが楽…

神奈川からはじまるマグネット・カルチャー

「マグネット・カルチャー(マグカル)」とは、文化...
12月8日公開

続きを読む:神奈川からはじまるマグネット・カルチャー

伝説に彩られたまち「本牧」の昔と今、そして未来を…

横浜市中区の南東部に広がる小さな街・「本牧」。か...
12月8日公開

続きを読む:伝説に彩られたまち「本牧」の昔と今、そして未来を…

マグカルレポート(マグカルナイト編)

11月15日(水)から始まったマグカルナイト! これは、東...
11月29日公開

続きを読む:マグカルレポート(マグカルナイト編)

神奈川・日本の伝統文化 祭り特集 「第30回実朝ま…

源実朝ゆかりの地、秦野市東田原で「実朝まつり」が11月23...
11月20日公開

続きを読む:神奈川・日本の伝統文化 祭り特集 「第30回実朝ま…

「渡辺俊美のINTER PLAY」インタビュー

2016年10月2日より、FMおだわらで放...
11月14日公開

続きを読む:「渡辺俊美のINTER PLAY」インタビュー

県庁アナウンサーが行く!神奈川近代文学館 石川哲…

名前 石川 哲也(いしかわ てつや) ...
11月13日公開

続きを読む:県庁アナウンサーが行く!神奈川近代文学館 石川哲…

黒岩神奈川県知事×白井監督×八木大使「かながわマグ…

今回の「マグな人々」特集は、かながわマグカルトークと称して...
11月8日公開

続きを読む:黒岩神奈川県知事×白井監督×八木大使「かながわマグ…

あなたにおすすめのイベント

湘南地域

3/3

猫のひたいほどワイド 祝2周年感謝祭 …

藤沢市民会館 大ホール

続きを読む:猫のひたいほどワイド 祝2周年感謝祭 …

県西地域

2/24〜
2/25

第63回 菓子祭り2018

HaRuNe小田原(小田原地下街)

続きを読む:第63回 菓子祭り2018

県西地域

2/17〜
2/18

地物まつり

HaRuNe小田原(小田原地下街)

続きを読む:地物まつり

県西地域

2/10

からくりパズルマーケット

HaRuNe小田原(小田原地下街)

続きを読む:からくりパズルマーケット