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音楽

一柳 慧 × 大谷 能生 対談 ー 異なる世代のアーティストからみた一柳 慧 ー

一柳 慧 × 大谷 能生 対談 ー 異なる世代のアーティストからみた一柳 慧 ー

戦後から現在に至るまで、日本とアメリカを行き来し、音楽を通して常に新しい表現を追求し続けている一柳慧さん。様々なジャンルのアーティストと親交をもちながら独自の表現活動を展開し、生誕80周年を迎えた現在もなお、精力的に創作活動を続けている。 

一方で大谷能生さんは、高度経済成長を経た日本に生を受け、同じくクロスジャンルな活動を展開。著書では記録メディアが誕生して以降の20世紀の音楽批評について象徴的に言及するなど、社会と音楽の関係にも独自の視野をもっている。

この、世代は異なるが共に同時代を生きる2人の音楽家の対談を通して、その時代時代が内包している空気感とともに、新たな視点からの一柳慧像が見えてくることを期待したい。

大谷 能生(以下 大谷):はじめまして、よろしくお願いします。こちら(「アラザルVol.3」【ハードコア・インディペンデント批評誌。Vol.2では大谷能生、Vol.3で一柳慧が特集されている】を指差して)で、僕、一柳さんの前の号でインタビューされているんですよ。非常に長いインタビューで読み応えがあります。対談のお話がくる前からこちらは読ませていただいていたので。

一柳:いえいえ、そんなの読まない方がいいかもしれませんよ。(笑)

大谷:あと「日本の電子音楽」という本の立ち上げに僕も関わっておりまして。何本かのインタビューを、僕も行いました。


左:「アラザル」Vol.3 右「日本の電子音楽」川崎弘二 著

一柳:だけどあれは、本当にびっくりするみたいな詳しい本ですね。

大谷:日本の電子音楽の黎明期、つまり70年代までに、どういった作品が生まれて、どのように需要されてきたのかということに関して、僕たちが調べはじめた のは1990年代なんですけど、その頃ほとんどまとまった情報がなくて、例えば一柳さんの「エロス+虐殺」【監督:吉田喜重/音楽:一柳慧】の音楽であるとか、そういった80年代以前の日本の音楽を、一つ一つ調べてアーカイヴしていたんです。ようやっと、ここ10年くらいで、50年代や60年代の情報がでてきて、このように実際にお話を伺えることができるようになってきました。


「エロス+虐殺」

■生(なま)の音楽/録音された音楽

大谷:ちょうど90年代くらいに、僕はまだ20代だったんですけれども、とにかく日本の前衛音楽を聴こうと思ったときに、音源の再発もまだ進んでいなくて、聴くことができなかった時期が長かったんですね。

一柳:そうですね、90年代の頭頃までは、どちからかというと日本が右肩あがりだったせいもあって、生(なま)が多かったんですよ。僕らは生の環境の中でずっと育ってきているので、逆に今の方がうまく対応できてないところもあって。

大谷:あら(笑)

一柳:そうなんですよ(笑)

大谷:今はクラシックの音楽家の方でも、音楽を生でとらえるよりは、先に再生物で聴く感覚がすごく強くなってきていると思うんですけど…

一 柳:今はそうですね、しかしそれは聴覚感覚の退化を招きませんか。
LPの時代っていうのがしばらくありましたけど、ちょっと聴いたときにはLPよりCDの方が音質がクリアで喜んでいた評論家なんかもいたんですけど、CDだとそこで何が起こっているのか、つまり、耳には快いかもしれないけど、どんな風に演奏されているのかってことがわからないんですよ。例えばバイオリンを弾くときにボーイングをどうやって弾いているのかとか、そういう細かいことがLPだと聴こえるんです。今もヨーロッパに行くと、まだCDよりLPを売っている店が結構あります。日本はまずそういう状況ってほとんどないですよね。

大谷:そうですよね、CDも売らなくなってきたって聞いてますからね。

一柳:でもまだアメリカに比べたらいいほうですけどね。

大谷:アメリカはほとんどCDを今売らなくなってきていますよね。
僕がちょうどCD世代で、小学生の頃にメディアが切り替わったんです。それから30年くらいでまた違うメディアに遷っていくという状況になっちゃってるなぁ…と思うわけですけれども、一柳さんが音楽をはじめた頃というのは、レコードは出回っていたんですか?

一柳:いや、日本ではごくごく限られてましたね。僕らの子供の頃は、何しろ戦争の傷跡が非常に大きかったわけですから、物がほとんどなくなってしまっていた。楽器もない、楽譜もないとか。まあ、そういう時代ですからね、音楽をやっている人数が少なかったし、ご存知だと思いますけど、あの頃あったホールの数なんて3つくらいですよ。

大谷:笑
一柳:大ホールは日比谷公会堂だけでしたから。それでも、かえってホールが少ないせいもあったかもしれないですけど、結構熱気はあったし、いつもいっぱいで。今はやたらにできちゃって、どうやって内容を埋めていこうかっていうことの方が空疎になってしまっている。僕らの世代は両方知っているものだから、この転換というのが、なかなか受け入れるのが難しいんですよ。

大谷:でも埋めるのが大変ていうのは、なんか変な感じがしますね。

一柳:非常に変ですよ。だいたいこんなにきれいなホールが沢山ある国なんて他にないですからね。この間もウィーン・フィルの連中がきて話していたんだけども、むこう3年間のオペラとオーケストラのコンサートの切符は完全にSOLD OUTだそうです。

大谷:おー、むこう3年間ですか。

一柳:でも、やってる場所がみんな古いんですよ。内容を大切にしているので、モーツァルト・ザールとかシューベルト・ザールとか、立派な名前はついていますが、ホールは本当にもうロフトみたいなところでやってるわけですからね。

大谷:新しくホールを作らないですよね。

一柳:そっちの方にあんまり関心がないみたいですね。

大谷:そうですね。
先日、「実験工房展」に行ってきたんですけど、実験工房の人は昭和51年から58年頃に活躍されていて、ちょうど、その時期にほとんどすれ違いのような形で、一柳さんはNYにいかれた感じですよね。

一柳:そうですね、実験工房の立ち上がりの頃のことはほとんど知らないですね。

大谷:今の世田谷美術館があるあたりで、みんな歩いて友達の家に遊びにいって、道で興味のある人をみつけたら友達になって、作品を交換するというような交流がおもしろいなと思いました(笑)

一 柳:そうですね、歩いて、出会って交流するのが日常でしたから。実験工房に少し遅れて、評論家の吉田秀和さんが立ち上げた「20世紀音楽研究所」っていうのがあって、毎年場所を変えてフェスティバルを企画していたんですが、そのフェスティバルで初めてアメリカの音楽を演奏しようという話がでたことがきっかけで、私は61年に日本に帰国したんです。

大谷:ちょうど吉田秀和さんが NY・ヨーロッパを回っていたころが53年くらいでしたけども、NYではお会いにならなかったんですか。

一柳:ちょっとすれ違いだったようですね。でも、園田高弘さんや黛敏郎さんにはお会いしました。

大谷:確かジョン・ケージがヨーロッパに紹介されるタイミングが、54〜5年だったと思うんですが。

一柳:そうです、54年ですね。

大谷:吉田秀和は、ケージの音楽というのは当時やはり相当受け容れ難かったというふうに書かれていましたね。

一柳:ええ、そうですね。でも54年頃にヨーロッパツアーをしたことで、随分向こうの人も開かれて、それからブーレーズとかシュトックハウゼンたちとすぐに交流が始はじまったということです。

■東洋と西洋 その中間に立って・・・

大 谷:日本では、特に一柳さんの帰国と同時にケージの音楽が紹介されるわけですけれども、まだその時期までは、現代音楽の場合は先に先に新しいスクール、または新しいメソッドがあるという時代が残っていたと思うんですが、やはりケージの音楽を舞台上で演奏する際に、新しいという感覚でとらえられていたのかどうか、また観客がどのような感覚で受け止めたのかなどが、資料を読んでいてもわからなくて、その辺の感覚を教えていただきたいです。

一柳:あの時代というのは、音楽を目指している人も、それから観客の人も、戦争のあおりでいわゆるハングリー精神が漲っていた時代なので、そういう意味では日本も今から思うと珍しく開かれた自由な時代だったですから、みんな関心が高かったですね。これについていかなければ、時代に乗り遅れるというような気持ちがあったのではないでしょうか。
ただ、ヨーロッパは、少なくとも音楽の点では、そういう受け取り方をほとんどしてないと思いますね。

1950 年頃から、鈴木大拙がNYのコロンビア大学で禅を教えていたんですが、禅っていうのは、大拙の言葉を借りれば「今ここにあることがすべてだ。」つまり、何もしていなくて今ここに存在している、そのことが一番大事だということを言っているんです。ケージの音楽は、それを哲学にしていて、そこからグラフィックスコアやなんかを創造して具体化した。それは、ヨーロッパの人にとっては最初は非常にわかりにくいことだったと思いますね。

日本も、戦後は日本的なものに対する反発がかなりありましたから、先端的なものに対する理想像やハングリー精神みたいなものはあったんですが、むしろそういう日本的な観点は切り捨てに近い感じでした。

私は、西洋と東洋をいかに共存や相互浸透させられるか、という立場に立ってしまったものだから、なかなか禅一筋のようには徹底できなかったですね。

大谷:その時にケージの音楽というのは、アメリカ音楽として日本に紹介されたと思うんですけど、禅に基づいているという情報または印象というのは、当時の聴衆はどのくらい受けたんでしょうか。

一柳:これは私の認識なんですけれども、ケージを一番古くから大事な作曲家だということで、文章を書いたり、交流もなさっていた評論家の秋山邦晴さんと私は、どうしても今言った一点では話が合わないということがありました。

大谷:その辺りもう少し…(笑)

一 柳:秋山さんは、日本的なもの、禅的なものとかを完全に排除したヨーロッパの前衛的な観点からのケージを評価していたんですね。私はどうも、それだけではちょっと違うのではないか…。というのは、私はケージの弟子ということになっていますけれども、彼のやり方っていうのは、一緒に行動をする、一緒に音楽会をする、一緒に作曲の手伝いもする、さらに生活もしばしば一緒にという形で、彼の考えていることの一端にこちらも入りこめる教育だったものですから、普通の音楽教育とは違った環境に彼とともにいた中で、やはり日本の問題というのは大事だという認識がだんだん深まっていったんですね。

大谷:なるほど。それはやはり、一柳さんがアメリカに移られて、そちらからみた日本という距離の取り方が、その時期に芽生えてきてということだったんですか?

一柳:そうですね。

大谷:秋山邦晴さんの当時の批評を読んでいると、「洋楽を取り込む」というものすごいどん欲な意識があるように感じます。

一柳:そうですね、それは大事なことで、やっていただいて非常によかったんですけども、私はだいぶ長い間日本を離れていたので、欧米とは異なる日本の文化芸術の考え方や特徴に関心を深めていったのも事実です。

大谷:取り込むって思ったら「日本のものだ」ってこられる感覚が、60年代当時には衝撃的だったという感じが文章にも表れていました。

当時の文献を読んでいると、ケージのことを「東洋思想に基づく」というような大雑把な言い方をしているんですが、日本の聴き手に対してはっきりと、禅であるとか公案【禅宗において修行者が悟りを開くための仮題として与えられる問題のこと】であるとかいうアピールはしていなかったのかな…という感触を受けたんですけど。

一柳:日本の社会は縦割りですから、芸術と生活が遊離しているせいかもしれませんね。アメリカでは禅も生活の一部として把握されていますから。
ケージが62年に最初に日本に来たときに、まず言ったのは、鈴木大拙のところに行きたいということでした。それで私が鎌倉の東慶寺にお連れしたんですが、その当時大拙は92歳でしたが非常に闊達としていました。それで、本当にね、あれはなんていうのかな…ケージが、完全に…

大谷:「師匠…!」みたいな感じで(笑)

一柳:そうそう「師匠!!」って感じでね(笑)そして、大拙は堂々としていましたよね。英語ももちろんぺらぺらだし。余談だけど、そこへ行って一番びっくりしたのはですね、20代中頃のすごい美女が、大拙の秘書のような感じでいたんですよ。「これは何者だ?」と思ったんですが、12歳から大拙の禅に傾倒して、大拙が日本に戻って来るときに一緒についてきた方だそうです。

大谷:おー!

一柳:今、まだいらっしゃいますよ。こないだね、50年ぶりくらいに京都でお会いしました。今も非常に美女ですが厳しい方です(笑)

一柳:ケージにとっては大拙から学んだいろんなことを、自分の音楽に取り入れて、その後の作品に全てそれが投影されているという感じですから、まず一番に会いたかったんだろうと思いますけど。その時が最後になりましたね。大拙は96歳でなくなりましたから。

■ 時代が与えた影響

大谷:ケージは青年期が大不況の時代で、若い頃の話などを聞いていると、アルバイトをしながら作曲家をめざし、シェーンベルクに就き、その間いろんな発見を通して大拙の禅に触れるという流れがあったと思うんですけども、同じように一柳さんの時にも、50年代後半のNYというのと、60年代の日本という時代の中で、アメリカのジュリアード音楽院に通われて、ケージという存在に出会い、そしてまた日本に戻ってくるという流れの中で、そこで勉強されたことに対する時代の影響や、その当時のエピソードのようなものがあったらお聞きしたいんですが。

一柳:アメリカの音楽界っていうのは、日本でいうところの楽壇(オーケストラ・オペラ・音楽学校)と、大学付属の音楽部、それからどこにも属さないフリーランスの人たち、この3つがはっきり分かれているんです。
例えば日本だと、武満さんは70〜80曲くらい映画音楽をつくっているし、黛さんや林光さんも沢山つくっていて、ある意味で特定の監督との結び付きも非常に強い。ですが、例えばハリウッドであれだけの映画が作られていても、一回映画のほうに足を踏み込んだ作曲家は、楽壇や大学教授に迎えられるなんてことはないんですよ。そのくらいはっきり芸術音楽と区別、あるいは差別してるんですよね。

大谷:アカデミックなものとポピュラーなものの区別、つまりある種のヒエラルキーというものがはっきりしていたと。それは50年代の頃もですか?

一柳:50年代ももちろんそうですね。今でいうと、例えばスティーブ・ライヒが最近日本に来ていましたけど、彼は絶対にオーケストラプレーヤーは使わないですよね。 だから、自分で選んだ人達のグループでやってるんですよね。それはそれで、フリーランスでも成り立つような社会ができてきますね。

大谷:マース・カニングハムのダンスカンパニーっていうのも独立したカンパニーとして興行を行っていたんですか?

一柳:僕はダンスの内情っていうのはよくわからないけども、最初から最後まで一貫していたんじゃないでしょうか。ダンスも、カニングハムはモダンダンスで、その前にモダンバレエがあったりとか、ぞのあとはコンテンポラリー・ダンスとか。

大谷:モダンダンスは、マーサ・グラハムのところですね。

一柳:そうです、かなり細分化されてますよね。

大谷:グラハムまでは、まだクラシック音楽の人が使われていたんですか。

一柳:当時の、主にアメリカの現代音楽の作曲家達ですね。

大谷:映画と一緒で、コンテンポラリーダンスに対する仕事っていうのは、楽壇または大学の人でもやらなかったんですか?

一柳:ダンスはどうだったかなぁ。でも、少しいますね。
私の印象では、現代のダンスの人達は、現代作曲家の音楽を使っていて、ダンスと音楽が同じ時代を歩んでいるという感じが強かったです。

大谷:映画に比べればステージ芸術ということである程度は認められていたんでしょうか。

一柳:ダンスは音楽や演劇と並んで、あちらではパフォーマンス・アートの重要な一貫と言っていいと思います。その点では、ダンスは新しくてもその音楽はクラシックやポピュラーが使われる最近の傾向に、私はやや違和感を覚えますね。

大谷:一柳さんはアメリカで活動をはじめられたのが、ジュリアード音楽院からですが、楽壇に入ろうという意識が多少はあったんですか。

一柳:いや、私はとにかくNYへ行きたいという気持ちがあって、外国人だとビザのためにどこかに所属してないとだめなんですよ。一番簡単にできるのが学校だったので。でも、ほとんど学校なんていかなかったですね(笑)

大谷:なるほど(笑)

一柳:NY全体が学校みたいな街ですからね。あともう一つは、ジュリアードに12音技法を教える先生が1人もいなかったんです。

大谷:え!そうなんですか…!

一柳:そう。だからその姿勢からみてもわかるんですが、特にフリーランスの人たちは排除されていましたね。

大谷:アメリカでもそうなんですね。ヨーロッパのほうでそういう話はよくきくんですけど…。
そうした中で、ジュリアードの方向よりはフリーの作曲家としてやって行かれる決心をされたのは、日本に帰ってくる前なんですか?

一柳:私はジュリアードに入った頃から、12音技法を用いて曲を書いていましたから、ジュリアードではピアノだけはしっかりやりましたね。

大谷:ピアニストとしての方向もそれほど興味がなかったんですか?

一柳:やっぱりどうしても作曲の方に重点がかかってますから、それほど時間がとれないですね。

大谷:なるほど。もともと、作曲を勉強しようと思って留学されたということですものね。

一柳:はい。これも悪い意味だけではないと思うんですけれども、やはり演奏家っていうのはかなりアスリートと似ているところがあって…。

大谷:はい(笑)

一柳:なぜやっているかとか、そういう事はほとんど問わないですよね。

大谷:そうですね、プレーヤーは曲を考えなくても弾いていますからね、基本的には。

一柳:そうですね。
大谷さんのCD《Jazz Abstractions》、あれは非常に面白いですね。今もあれはライブでおやりになっているんですか。


《Jazz Abstractions》

大谷:《Jazz Abstractions》はほとんどコラージュで、既存音源を使っていろいろまとめた音楽です。僕はサックスプレーヤーなので、生演奏のジャズライブもしているという形で、何個かバラバラにやっています。あと曲も書きますし。舞台と劇版みたいな仕事がよくくるので、その度ごとにいろいろ工夫して音楽をつけるという仕事と、いわゆるブラック・ミュージックのポピュラー音楽としての流れの中のジャズ、ソウル、HIPHOPのような音楽と、あとはインプロヴァイザーとしてエレクトロニクスとサクスフォンで演奏するという即興演奏、そういったジャンルでやっています。

一柳:いつもメンバーとか人数とかは決まってるんですか?

大谷:自分のバンドだけ3人でやってるんですけど、それは固定であとは行ったり来たりでいろんなところで…。先日は赤レンガ倉庫で舞踏の室伏鴻さんと一緒に組んで、室伏さんの舞踊と僕の音楽で作品を作ったりとか。

一柳:そういうのは楽しくていいですよね。そうすると、かなりオリジナルな形で活動されているんですね。

大谷:そうですね、がんばってやっていこうと思ってます(笑)

■ ブラック・ミュージックとの接点

大谷:50年代ですと、特にNYではモダンジャズが一番盛り上がってきたタイミングであったかと思うんですが、ジャズのビバップのサウンドっていうのは、当時、一柳さんの耳にはどのように聴こえていらっしゃいましたか。

一柳:時々ね、NYにあるヴィレッジ・ゲートとか、ヴィレッジ・バンガードみたいなところに行ってはいたんですが、それに行く機会をつくってくれたのが、ケージと一緒にやっていたテュードアなんですよ。彼がそういうところで演奏会をやっていて。

大谷:テュードアが!?

一柳:実は、ケージに一番最初に正式にあったのは、ヴィレッジ・バンガードだったんですよ。

大谷:ヴィレッジ・バンガードだったんですか!!

一柳:58年頃、ヴィレッジ・バンガードでテュードアがリサイタルをやったんですよ。もちろんそれまでそこでは、そんな音楽を誰もやってなかったんだけど、 それをきっかけに、少し出入りしやすくなったんです。ただ私への影響っていうのは、そちらにあんまり時間が割けなくて。何故かというと、その頃はアメリカがほとんど唯一の戦勝国で、ヨーロッパから非常に多くの音楽家が流れてきて、そういう人たちとのつきあいが多かったっていうのがありますね。だから私はどちらかというと、ジャズよりも60年代に入ったあとに、ロックの方と現代音楽ですね(笑)

大谷:《オペラ 横尾忠則を歌う》とかですね。


《一柳慧作曲 オペラ 横尾忠則を歌う》

一柳:言葉としては、ロックもジャズもプログレッシヴっていう言葉を使いますよね?

大谷:ジャズの方では、プログレッシヴという言葉が一瞬、例えばスタン・ケントンの後半であるとか、サード・ストリーム【クラシックとの融合を図ったジャズ のムーブメント】っていう言葉とほぼ同じくらいの感じで、ガンサー・シュラーであるとかがプログレッシヴ・ジャズって言いはじめたんですが、それは結局定着しなかったですね。

一柳:なるほど。セシル・テイラーはどういうふうに形容されるんですか?

大谷:セシル・テイラーは、出始めのころはプログレッシヴ・ジャズというくくりで捉えられていたんですけど、オーネット・コールマンが出て以降は、その辺りが黒人音楽の先鋭みたいな形で、フリージャズっていう言葉になって、そのときにプログレッシヴ・ジャズという言葉がが切り捨てられてしまったということがありました。

一柳:なるほどね。

大谷: 50年代半ばから後半、どちらかというとアレンジをしっかり重視して、アンサンブルで、12音を含めてっていうような、現代音楽とジャズの融合みたいな形がその頃ちょこちょこでてきていて、それはどちらかというと、ヨーロッパ側からとりにいったジャズのイメージという印象が強かったですね。

ブラック・ミュージックの観点から言うと、いわゆるアメリカのポピュラー音楽であるスイング・ミュージックというものがしっかりあるとして、1940年代から50年代にかけて即興演奏が主体で、お互いにやりあうバトル性が強いビバップという音楽がでてきたと思うんですが、50年代のアメリカで、その2つの違いというものを、認識したご経験などはありますか。

一柳:うーん、あの頃は何をしていたかな…。特に美術の人たちや舞踊家との付き合いが多かったもので、逆に音楽のほうはちょっと手薄になっていたんですよ。

大谷:なるほど(笑)

一柳:それと、これはちょっとすんなり意識した上でではないんですが、さっき言ったように、どうしても各音楽にはボーダーがあったので、そういうものを美術っていうのは飛び越えて次々と新しいものを生み出していて、フリーランスの音楽家たちが、そちらからの影響をものすごく受けていました。
大谷:そうですね、ジャクソン・ポロックの最盛期でもありますしね。

一柳:そうですね。

■様々なフィールドで活動すること

一柳:今の日本の若い人たちって、割合と大谷さんがやっておられるようなやり方に近いというか…。といっても高橋悠治さんなんかもそうですよね。

大谷:あー、なるほど。

一柳:来月開催するコンサート【東京文化会館で一柳さんの生誕80周年を記念して開催されるコンサート】で、彼にも出演してもらうんですが、彼も今の大谷さんの忙しさに似て、もの凄い忙しいんですよね。舞踊家とはやってる、詩人とはやってる、もうね、いろんな人たちとやっていて、極めて精神状態もいいみたいです。楽しそうで。


「一柳慧 80th FESTA! 」フライヤー

大谷: コンポーザー・プレーヤーで楽器が弾ける方っていうのは、いろんな人とやる機会が増えるのは健康にはいいっていうか(笑)

一柳:そうそう、そうだと思いますよ。

大谷:だいたいあるジャンルの中だけでやるようになっちゃうのが、僕の世代でも多いですし、僕もアカデミックな教育はきちんと受けてないので、必然的に演劇であるとか文学の人であるとかとやるしか場所がないっていうこともありますし。

一柳:でもそういうやり方っていうのは、開かれて行く可能性が非常にあると思いますね。

大谷:そうですね、やっぱり面白そうな人とやるっていうのが基本になってくるので。

一柳:僕が一番嫌いなのは、分業化されて全部縦割りになってしまうこと、それとシステムが非常にがっちりできて来たこと。それはメリットもあることはあるんだけど、やはりそのために自由に動ける場が非常に限られてしまったというのがあるんですよね。

大谷:それが当然みたいに思ってる。

一柳:うん。

大谷:プレーヤーでもそういうふうに思ってる人が多い。ジャズの人もそうですけど、同世代のクラシックの人は全然つきあってくれないというか…。演劇とダンスのシーンが割とここ数年とてもおもしろくて、そういうところにいろんな人が関わればいいのになって思うんですけど。

一柳:演劇もそうだし、舞踊もそうだし、音楽もそうなるといいのですが、数少ないパフォーミングアーツの中で、音楽だけがちょっと、非常に頑なで。みんなすごく上手なんだけれど、さっきいったようにアスリート的になってきて、融通がきかなくなっているってところはありますよね。
この間、三輪眞弘さんにも会ったんです。彼もいわゆる音楽界からちょっとシフトしてきたみたいで。

大谷:なるほど、シフトしてきた。

一柳:やなぎみわの「東京ローズ」を観た時に会ったんですけど、彼女(やなぎみわさん)も美術から演劇にシフトしたって聞いてちょっとびっくりしましたけどね。

大谷:今一番演劇が、ミクストメディアでいろんな可能性がまだまだあるなと思っていて、そう思うとやっぱり一緒にやりたくなるんですけど、50〜60年代のNYのもそういう感じがやっぱりすごくあったんですか?

一柳:そういう雰囲気に近かったと思いますね。
ただね、私がちょっとびっくりしたのは、61年に帰って来た頃っていうのは、場所は限られていたと思いますけれども、「草月アートセンター」というのがあって、そういう意味ではあそこだけは本当に自由でしたね。

大谷:いろいろとお話には聞いています。資料をみると、サム・フランシスの絵画があってっていう。

一柳:前の草月ホールっていうのは片方がサム・フランシスで片方がマチューかな。あの夢がもう一度起こるといいなっていうふうに思っていますが。

大谷:そうですね。話に聞いていると、こんなに色んなことをやってていいのかっていう。

一柳:そうなんですよね、あれは本当に、不思議でしたね。

大谷:草月は、50年代後半から60年代いっぱいですかね。

一柳:むしろ60年代前半のほうが盛んでしたね。
今、アメリカからやたら60年代の問い合わせがくるんですよ。各学校でアーカイヴつくったり、グラフィックなものへの理解を深めるために、60年代のものが演奏できるような人を呼んで演奏会をしたりしてるんです。

大谷:多分、全世界的に60年代から70年代初頭っていうのは、興味が高まってますよね。実験工房展とかも意外と人がきてるみたいですし。こないだもテープ音楽再現コンサートとかもやっていて、満員でしたね。

■ 一柳作品について — 西洋の知恵と東洋の知恵、それを相互に浸透させること

大谷:今回いろいろ資料をお借りして、あらためて聴き直させていただいたんですが、「千年の響き」の考え方 ―大仏開眼まで戻って考えた方がいいという感覚―であるとか、また、こちらのアルバム《交響曲第8番—リヴェレーション2011》も、非常に聴き応えがあり、西洋的なものの時間の作り方と、東洋的なものの把握の仕方を、混ぜるわけではなくて…

一柳:時間と空間を相互に浸透させるっていうか。

大谷:はい。一つ一つ確認しながら聴いていたんですが、いろいろ聴いて行く中で、様々な感覚についている時間、文化についている時間など、何種類もの感覚が異なった時間があり、それを一つの作品に浸透させる、ということをずっと行われているんだということが、とても興味深く感じました。具体的にどのような方法でやられているのか、また、東洋的な時間の把握というのを五線譜に記して、それをはじめてプレーヤーが読む時のやり取りに関するこれまでのご経験なども、お話しいただけたら嬉しいです。


左:《千年の響き》 右:《交響曲第8番—リヴェレーション2011》

一柳:確かに今おっしゃったように、時間の要素っていうのはすごく大事なんだけども、基本的に、時間で音楽を考えるっていう構造は、やはりどうしても西洋的なものに支配される。それは決して悪いことではなく、彼ら(西洋の人)にとっての長い間の必然性のもとに確立されたものですし、またそれがいろんな意味で壊されたりとかしながら前進してきたところはあるんですが。
たとえば、日本人がもっている無常観というのは、さほど意識してるわけではなく、むしろ潜在意識的にみんなが持ってるものだと思います。それを、西洋的な言葉に一回置き換えないと、西洋の人には何のことかわからないでしょ。

東洋あるいは日本の、芸能的なものも含めたもののあり方が、先生が弟子に教えるということを通して非常に感覚的に物事を処理するという特徴がありますが、それを一度、感覚のレベルではなくて、もうちょっと哲学とか論理とか背景に置き換えてどう捉えることができるかということを考えること。そのことが、明治以来、西洋が日本に教えてくれた一つの大事なことだと思っているんです。その意識が高まってくると、今までの曖昧さが、曖昧でなくなっていく。

大谷:先生・弟子という形ではなく、広くテキストとして外でみんながそれを読めるものというか…

一柳:私が基本的にやっているのが、時間と同時に空間も相互に浸透させるということ。これは、私はどっちかというと日本の建築とか庭園とかそういうものから学んだんですね。非常に見事に時間と空間両方が共存している。それを、音楽に転換できればどうなるだろうかと思ってやっていますね。

一柳:僕は特にヨーロッパ圏の国に行ったときに、レクチャーやトークをしなくちゃいけないとなった時、いつも下手な英語を使ってるわけだけれども、英語でやるとなると、曖昧な部分をきちっと整理して説明しなきゃいけないし、なんとか向こうの人に伝えられるようにしないとっていうことで、逆に自分の考え方を整理することにも結びつけられる。

大谷:日本人同士でも、生まれ育ちが違うと一つずつ相手にわかるように言葉を変えながら話さないと伝わらないけれども、そういう感覚が抜けてくると殺伐としてきちゃうっていうか、やっぱりお互い相手の言葉でしゃべる練習をきちんとやっていくことはすごく大事ですよね。

一柳:あとはやっぱり自然とのつきあい方っていうのかな、特に日本は非常に顕著にそれが時間に投影されていると、そういうふうに思いますね。

大谷:そうですね。僕も、テキストに書いて固めてしまえば、それをよその国に持って行ってそこでも同じことができるっていうのが、ヨーロッパ文明が発明したすごいところだと思うんですね。しかも、音楽は身体の中から話せて、(楽譜という形で)人に渡せるっていう大発明だったと思うんですけど、その“功罪”は、罪のほうよりも功のほうが多分大きかったと思うんです。

書いて、読んで、それをみんなで直して、というように身体から一回切り離したものをもう一回演奏する時に、読むという作業がクラシックでは未だにずっと続けられていると思います。クラシック音楽の場合だと、紙に書かれた物が作品であるという感覚が、プレーヤーの方にも強くあると思うんですけども…。

一柳:教育がそういう風になっているんじゃないですか。

大谷:その辺りはどのようにすればそうじゃない形での音楽の捉え方ができるんでしょうか。

一柳:随分大勢の音楽を勉強する人が日本に留まらずに、外国にいくじゃないですか。“功罪”っていうのはまさにその通りで、音楽とか美術とかのような言葉をそのまま表現に使わない分野は、その物が持っているものから発想するという説得力=具体的なものを持つべきだと思うんです。さっきウィーンの連中が向こう 3年間チケットが売り切れだと言いましたが、あの連中の練習の仕方を聴くと、それがよくわかるんですよ。会話したり、相談したり、いろんなことが音でもって成立してるわけです。

大谷:完全に具体的なんですね。

一柳:言葉の力を借りてない、音の実体とか実在性ですね。

大谷:それがあった上での紙のやりとりが、当然になるといいってことですよね。日本の場合は、それがないままで紙を使ってやりますってなりますもんね。

一柳:そうなんです。そこのギャップがあるんじゃないかという気がしますね。

大谷:僕は、ジャズプレーヤーなんですけども、ジャズミュージックの場では人それぞれの固有の音色がなければやる意味がないという中で、手作りでつくっていくのがすごく魅力なんです。でもやはりジャズももう教えるものになってきていて、大学の勉強の中にも入っていて、 「即興演奏っていうのは、こういうときにはこういうスケールを使います」みたいな。そういう教育をみているとあまり魅力が…

一柳:邦楽なんかもそうですよね。だんだんヨーロッパ音楽にすり寄ってくる感覚があるんですよね。

大谷:具体的じゃなくなっちゃったら全然おもしろくなくなっちゃいますもんね。

一柳:そうですよね。
いや、今度是非、生を。また機会があったら聴かせていただいたり、見せていただいたりしたいと思ってます。

大谷:横浜でちょこちょこやっておりますので、ぜひ、よろしくお願いします。

TEXT:井上 明子 PHOTO:西野 正将

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