コンテンツにスキップ
ミュージック

3月11日に想う「h.イマジン」と「ちぐさ」

3月11日に想う「h.イマジン」と「ちぐさ」

今夜もどっぷりジャズ浸り
File.6 陸前高田「h.イマジン」
新村繭子(ジャズ喫茶ちぐさ)

ちぐさは、2007年に地域の区画整理によって一度閉店した。2010年、3日限りのアーカイブ展「野毛にちぐさがあった!」開催を機に復活の声が高まったものの、お金もなければ人手もない。「いずれは…」「いつか再開できれば…」というはっきりしない状態のまま、時間だけが流れていった−−−2011年3月11日、東日本大震災が起こるまでは。

この日、東北地方を襲った津波は多くの犠牲者を出し、根こそぎ町を破壊した。
野毛にいた私は現地の被災状況を目にするも、なす術がなく、ただ無力感に襲われていた。


そして4月。メディアが詳細を報道するようになった頃、私は1枚の写真を目にする。それは、瓦礫の中でレコードを手に立ち尽くす一人の男性の姿を報じる神奈川新聞の記事。陸前高田で「h.イマジン」というジャズ喫茶を営んでいたマスターが、店も、音響機器も、レコードも、何もかもを津波によって失い、それでも再起に望みをかけている、という内容だった。
ジャズ喫茶…レコード…その文字の羅列を見て、いてもたってもいられなくなった私は、即座にちぐさ関係者や町に呼びかけてチャリティーイベントを企画。フリーマーケットを開催するとともに募金を募り、さらにレコードの寄付を呼びかける。1日のみのイベントだったが多くの人の協力を得られたので、その売り上げと寄付金、レコードを携えてすぐさま陸前高田へ。避難先の体育館でマスターに会い、直接手渡すことができた。

マスターの冨山さんの案内で「h.イマジン」があった場所も訪れた。行方不明者はいまだ数万人、瓦礫の撤去も手付かずという状況は筆舌尽くし難く、正視できないほど。ジャズが流れていた痕跡はどこにもなく、埃っぽさの中に饐えた匂いがしてマスクが外せなかった。
この場所でジャズを…とせめてもの思いを込めて、横浜から持参したプレイヤーの上でレコードに針を落とす。
ベニー・グッドマンの「Don’t Be That Way」。
陽気なビッグバンドとクラリネットのスウィングが瓦礫の町に高らかに響く。何とも奇妙な光景だったが、それは吉田衛の物語を思い起こさせる響きだった。

ちぐさの創業者・吉田衛が戦後徴兵から帰国したとき、横浜の町は大空襲で焼け野原だった。真っ先に店跡に向かったものの、喫茶店も、苦心して集めた貴重なレコードも、何もかも焦土と化し影も形もない。しかし、進駐軍放送から流れるジャズの音がジャズ喫茶ちぐさ再起への思いを奮い立たせた。

この話は「横浜ジャズ物語」の中にある一節だが、この時の吉田衛と、陸前高田で被災した冨山さんの姿が重なったのだ。

その後冨山さんは、自らも避難所生活の中、蓄音機とレコード、コーヒーセットを携えて他の避難所にも精力的に通い続けた。ちぐさの仲間も陸前高田を再訪し、冨山さんと“出張ジャズ喫茶ちぐさ”を開催。ネット中継で横浜と結び、冨山さんや復興に立ち上がる人々の生の声を届け、語り合った。
あの時は横浜からエールを送ったつもりだった。けれど後から考えると、エールを送られていたのはちぐさの方だったのかもしれない。全てを失った焦土から吉田衛が復活させた、ちぐさの物語を終わらせてはいけない、と。

ちぐさを愛するたくさんの人の力添えもあり、ちぐさは震災翌年の3月11日に再開にこぎつけた。あえてこの日を再開日にしたのは、震災のこと、被災地のことを忘れないため。ちぐさでは、周年の度に必ず冨山さんや他被災地の近況を報告している。

「ジャズ」には俗語で「活気」という意味も含まれるそうだ。それは決して音楽的な意味だけではなく、生活や人生そのものも指すのかもしれない。
東北にジャズを馳せながら、震災8年目、ちぐさ再開7年目の3月11日を迎えようとしている。

マガジン