【アートの魔法 06】川崎市岡本太郎美術館 揺るぎない芸術への情熱

2025 年 3 月に入館者累計 200 万人を達成した、「川崎市岡本太郎美術館」。1970 年に開かれた日本万国博覧会(大阪万博)のシンボル「太陽の塔」の制作者で、テーマ館展示プロデューサーも務めた芸術家・岡本太郎さんが 80 歳の時に寄贈した貴重な作品を鑑賞することができます。再び大阪で万博が開かれている今、注目のミュージアムで、学芸員の佐藤玲子さんにお話を伺います。
(トップ画像:川崎市岡本太郎美術館「赤の部屋」)
人間・岡本太郎について

岡本太郎さんは 1911年 2月26日、漫画家の岡本一平と歌人で小説家の岡本かの子の長男として、かの子の実家がある神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市高津区二子)で生まれました。芸術一家に育ち、幼少期から好んで絵を描いていましたが、中学校に入ったころには描くための意義に悩み、画家になることへの迷いを抱いていたといいます。
-生田緑地の自然に包まれた、素敵な美術館ですね。
佐藤 川崎市は、岡本太郎にとって出生地であり、家族の思い出が残る場所。1989 年から 1991 年に、川崎市民ミュージアム(現在は休館中)で岡本家の企画展が開催されたことを機に川崎市への主要作品の寄贈が決まり、当館が建設されました。第一次寄贈で、絵画や彫刻を約 300 点。第二次寄贈でインダストリアルデザインや版画、ドローイング、著作を約 1,500 点。戦後の代表作も含めて、約 1,800 点を譲り受けて収蔵しています。

-年4回、企画展を開催していると聞きました。
佐藤 はい、学芸員 5 名で担当しています。当館は企画展に合わせて常設展も装いを変えるので、来るたびに新しい作品に会えるとリピーターの皆さんにも好評です。テーマによっては常設・企画の区切りをなくした全館展示も行います。
-見応えがありますね。ところで、佐藤さんは岡本太郎さんにどんな印象を持っていますか?
佐藤 私は美術館の開設準備のころから関わっているのですが、当初はシンプルに芸術家と捉えていました。ただ、知れば知るほど見識の深さに驚かされて、今では思想家に近いイメージを持っています。
岡本太郎は 1929年3月に慶應義塾普通部 を卒業し、翌月に東京美術学校(現在の東京藝術大学)へ入学するも、12月に休学。一家で一平のロンドン軍縮会議の取材旅行に同行し、渡欧しました。パリ大学(ソルボンヌ大学)の社会学者であり、人類学者のマルセル・モースに師事。民族学を学び、土着信仰や民族行事への関心と新たな視点を得たことが間接的に作品に宿っていったと思います。

岡本太郎撮影写真 (『岡本太郎著作集』 第 5 巻 『神秘日本』関連)
母との別れ、ピカソとの出会い

写真中央は代表作の一つ、《森の掟》1950 年
帰国する両親を見送り、パリに 1 人残って自分の芸術表現を追求していた、岡本太郎さん。多くの学びを得てもなお芸術への迷いが消えなかったある日、たまたま立ち寄った画廊で見たパブロ・ピカソの作品《水差しと果物鉢》に衝撃を受けます。
-パリでの 10 年間で民族学やピカソを知り、その後の指針を得たのですよね。
佐藤 ピカソの作品で新たな描写を目の当たりにしてからは、ピカソを超えることを目標に、「対極主義」という考え方で絵画制作などに打ち込むようになりました。
-そして同じころ、母・かの子さんとは今生の別れを経験しました。
佐藤 両親が帰国するのをパリで見送ったのが、最後でした。岡本家は特殊な家庭環境でしたが、作品に対する姿勢や芸術への向き合い方は、かの子さんから強く影響を受けています。当館のシンボルタワー「母の塔」は、ゆたかでふくよかな母のやさしさなどのイメージを忠実に再現して製作されました。1964 年に太郎の手によって多摩川河畔に建立された、岡本かの子文学碑《誇り》の碑と向かい合うように設計されているのですよ。
作品と思いを継いで

-岡本太郎さんは絵画に限らず、多分野で作品を残しています。先日、重要文化財に答申された「太陽の塔」など、パブリック・アートも多いですよね。
佐藤 日本国内に数多くのオブジェやモニュメントがあり、多面体な芸術家であることも岡本太郎の特長です。大きな作品ばかりでなく、写真や著作も多く、人のつながりも多岐にわたります。当館は” 岡本太郎芸術のおおよそがここにある”といっても過言ではない美術館。これからも岡本太郎作品の魅力と広がり、深さを伝えていきたいです。
文/志村麻衣(編集ライター)
川崎市岡本太郎美術館
住所:川崎市多摩区枡形 7-1-5 生田緑地内
電話番号:044-900-9898
公式サイト:こちら