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音楽

祝・還暦!音楽堂開館60周年記念 ー吉田孝古麿先生の個人史に垣間見る 音楽堂誕生から今

祝・還暦!音楽堂開館60周年記念 ー吉田孝古麿先生の個人史に垣間見る 音楽堂誕生から今

Interview & text:井上明子     photo:西野正将

神奈川県立音楽堂
神奈川県立音楽堂

神奈川県立音楽堂が“木のホール”と呼ばれる由縁は、ホール内の木製の壁や天井に由来するといわれています。戦後の混沌期に産声をあげた日本初の公共による本格的コンサートホールは、かつて“東洋一の響き”と称され、今なおプロ・アマ、そして演奏者と聴衆の垣根を超えて愛されています。実はこの音楽堂の誕生から、今年(2014年11月)で60年が経とうとしています。

そしてここにもう1人、60年の節目を迎える方がいます。弱冠20歳で合唱指揮者活動をはじめ、80歳になられた現在も現役の吉田孝古麿先生(通称:マロ先生)です。

MAGCUL.NETでは、同じ横浜で育ち、音楽という共通項を持つこの2つの60周年を記念し、吉田孝古麿先生にお話をうかがいました。音楽堂開館前からこの地域をよく知る先生の個人史から、先生と音楽堂の60年の年月が透けて見えてくることを期待しつつ、さっそくインタビューに移りたいと思います。(場所:神奈川県立音楽堂 控え室)

※以下記事内では吉田孝古麿先生の呼称を愛称であるマロ先生に統一させていただきます。

小・中・高校時代のマロ先生 ー 音楽との出会い

- マロ先生は横浜にお住まいだったことから、幼い頃から今までの音楽堂周辺地域の遷り変わりをみていらしたと思います。音楽堂ももうすぐ60歳の誕生日を迎えますが、マロ先生も指揮者活動60周年ということで、本当におめでとうございます。

偶然に、音楽堂ができた年に20歳だったんですよ。それでその年にプロとして音楽の世界にはいっちゃったものだから、音楽堂とおんなじ60周年。だから足さないでも年がわかるんですね(笑)

吉田孝古麿先生

- さっそく、先生の小学生時代からお話をお聞きしていきたいと思います。先生はどちらの小学校のご出身なんですか。

僕は生まれは北海道で、7つの時に横浜に来て、戦争のために小学校はあっちこっちと6回変わってるんですよ。小学校5年生の時に箱根へ集団疎開したんだけど、すぐにあの有名な横浜大空襲(※1945年5月29日)があって我が家も焼けちゃったものだから、父母の里である北海道に疎開したんです。そして終戦後、横浜に引き上げてきました。当時老松小学校というのがあったんだけど、横浜市役所に接収されていたので本町小学校に同居していて、僕はそこを卒業したんです。

その後も1946年の学制改革で6・3・3・4制度(※現在の学校制度)に変わったんだけど、新制中学・新制高校とそのちょうど切り替えのところにうまい具合にはまっちゃって(笑)子どもの頃だからあんまり深く考えなかったけど、今から考えるとこんな人生もあるんだなって思っちゃう。

マロ先生のふ・し・ぎ
マロ先生のふ・し・ぎ

- 音楽堂の伊藤館長から、マロ先生の周りのスタッフが作成した冊子「マロ先生のふ・し・ぎ」をお借りしました。これによると、小学生の時に、空襲時の爆撃音を聴き分ける“集団和音聴練”という授業があったそうですね。

そうそう(笑)まずね、先生がドミソという和音を弾いたら、みんなが手をあげてどの音を弾いたか当てるっていうのはよくあるでしょ。それが当時は外国の言葉を使わないってことで、イロハニホヘトでやってたんですよ。だからドミソは“ハホト”、シレソは“ロニト”、例えば「村の鍛冶屋」っていう曲は音でいうと “♪ホトトトハホホホ…” になるわけ。

戦時中だったから、授業中に日本の飛行機やら外国の飛行機やらが飛んできて、”ウイーン”とか”ブーーン”とか鳴るでしょ。それで、例えばB-29だと爆撃機だから音が低いとか、「この音は日本の味方の飛行機の音だよ」、「こっちは敵国の音だからそれが鳴ったときには避難するんだよ」とか、そういうことを音楽の授業でやってたんですよ。

- すごいですね…。それが先生の最初の音楽体験になるんですか?

でもそれは音楽を覚えたっていうよりは、言わされてやってたっていう感じ。今の子どもたちは小さい頃からピアノを習いにいったりしているけど、当時は戦争中ですからちゃんとした音楽の授業はほとんどなかったんですよ。我が家でも音楽をやる環境でなかったし。でも今考えると、みんなより少しは音感が鋭かったのかなとは思いますけどね。

- 次に中学時代ですが、先生は老松中学校に通われ、そこでグランドピアノと初めて出会ったそうですね。

そうなんです。中3の時、ホーム・ルームの隣が音楽室でね、朝早く行って用務員さんに鍵をもらって、そのピアノを弾いていたんです。

- 独学ですか?

音楽も教えられる国語の先生だったんですけど、僕と下駄屋の息子の2人で一緒にその先生にならって練習をはじめたんですよ。その子は夏休み迄でやめちゃったけど、僕だけそれを一年間続けたんです。とにかく、朝も昼休みも放課後もやって、遅くまでやってると職員会議が終わった先生が来て、またみてくれたんですよね。たった1年間だけだったけどピアノ漬け・・・。でも、当時は男の子がピアノを弾くなんて、軟弱に思われていたから、そう思われないように、わざとソフトボールやバレーのクラス対抗なんかがあると率先して手をあげてましたね(笑)

- 想像するに、物凄く忙しい中学生だったんじゃないですか?

でもそれが楽しいっていうか。今みたいに塾に行くとかがないので、遊びが中心だったんですよね。当時は野毛山動物園もまだできていなくて、あの辺りが開放されていたので、そこでかくれんぼしたりさ。

- いいですね! それで、高校は新制高校になった横浜平沼高校に通われて、そこではオーケストラ部に入部されたそうですね。しかもティンパニ奏者だったとのこと。いきなり打楽器を始めるわけですが、どんなきっかけだったんですか。

平沼高校は元々女学校だったんだけど、僕の代が男女共学になった一期生だったんですね。男子が来る前は女子だけでオーケストラ部をやっていたんだけど、男子が入ってきたから楽器運搬係にちょうどいいやってことでね、スカウトされたの。当時は横浜交響楽団が平沼高校の練習室を使っていて、楽器が置いてあったんですね。本番の時はそれを借りれるんだけど、練習は机の上に板を置いて、竹の棒を自分で作ってするんです。ティンパニって言うのはオーケストラの中ではのべつまくなし出番があるものではなくて、ここぞというときに鳴らす楽器だから、ドーンと一発間違えちゃうとヤバイとかいうのがありましたね(笑)

- 急に出番がきますからね(笑)

でも、ピアノをやっていたのが少しは役にたったかな。高校時代はオーケストラの他に1年生だけでも混声合唱部を作って、そっちのほうも一生懸命やってました。とても充実していましたね。

- 合唱に出会ったのが、高校時代なんですね。この頃が今の原点になるわけですね。

大学入学、中退、そして合唱指揮者の道へ

- 高校卒業後は大学で、合唱、オーケストラ、そして作曲の勉強もはじめられたそうですが、その中で、指揮者の岩城宏之さんとの出会いもあったそうで…

僕は学習院大学に入ったんですが、岩城さんもその出身なんですよ。岩城さんは学習院を出てから音楽学校に入って、N響のティンパニをやっていたんですよね。僕とおんなじ打楽器だったんです。

- 岩城さんがティンパニをされていたというのは、少し意外な印象を受けますね。

そうそう。それでね、前田幸一郎先生の代振り(※練習だけ振る人)として母校にも教えに来ていたんです。どういうわけか、僕が高校でティンパニをやっていたことが知られていて、スカウトされたんですね。だから一度だけ練習に参加したんですよ。ちょうどシューベルトの《交響曲第8番 未完成》を練習したのを覚えています。後は横浜での合唱活動が忙しくなってしまって…。

- それに、作曲の勉強もはじめられたとのことですしね。

そうなんです。当時は画家、小説家、音楽家は貧乏の代名詞みたいな時代だったから、大学はきちんと就職ができるようなところにいくよう両親から言われ、学習院の政治学科に入ったんですが、授業は全部午前中にいれて、午後はすべて合唱の指導に当ててたんですよ。また高校卒業と同時に芸大出身の作曲家の石渡日出夫先生に作曲法を師事しました。母校平沼高校のOBとして教えに行ったり、ちょうど“うたごえ運動”(※)が盛んな時代だったので、合唱指揮だけで食べていけるくらい企業の合唱団を掛け持ち指導をしていたんです。

※1960年代に職場や学生のサークル、当時流行した歌声喫茶などを拠点に行われた合唱を中心とする日本の音楽運動であり、社会運動

音楽堂誕生 ー 東洋一の響きを体験

- この時期から数えて、今年で指揮者活動60周年ということなんですね。
一方で、音楽堂もその頃開館しています。先生は戦後の焼け野原から、ここ音楽堂周辺の風景をご覧になってきて、初めて音楽堂が建った時というのはどのような印象でしたか。

僕たちの代の成人式は、当時の紅葉坂の横浜婦人会館で開催されたんですけど(※)、その年の11月に音楽堂が開館したんです。でも、結局僕の遊びのテリトリーはこの辺りではなく、野毛山の方だったり、今の野毛町商店街の辺りだったんですが、当時の野毛地区なんかは、全部がマーケットで、テントをはっていろいろなお店がでいて、人で溢れかえってましたよ。だけどこの辺はもっとずっと静かな雰囲気でした。かもん山や紅葉坂の伊勢山皇大神宮のところのちょうど下の方は、当時は桜川という川だったんですよ。

※補足:おそらく当時、成人式は区毎の行事だった。

- そうなんですか!今からは想像がつきません…。
音楽堂は日本初の公共コンサートホールとして開館し、“東洋一の響き”と称されたことでも知られていますが、そんなホールが身近にでき、実際にそこで音楽体験をされた時のことをお聴かせいただけますか。

それまでは本格的な公共ホールなんてなかったから、演奏会は自由席が一般的だったんですけど、音楽堂は指定席で切符を売っていたので、座席案内係が必要になってくるんですよね。だから音楽を志している僕なんかみたいな音楽機関関係者のところへ、アルバイトをやらないかと誘いがあったんですよ。お金はもらえないんだけど、外国の演奏家の生の音が聴けるということで、何回かやっては、海外のプロの演奏を聴いてました。演奏中に勝手にお客さんが中に入らないように表で客止めをして、曲と曲の間に3階の扉から中に入ってもらうんだけど、お客さんが勝手に自席についてしまわないように「演奏が終わるまでこちらで立って聴いていてください」というふうに促すんです。その時に一緒に中に入って演奏を聴けたんですよ。

吉田孝古麿先生

- 特に印象に残っている演奏会はありますか。

ジュリアス・カッチェンというアメリカのピアニストの演奏を聴いたときかな。それまでは知らない曲を弾いてたんだけど、アンコールで、僕が中3でやっていたモーツァルトの「ピアノソナタ ハ長調 K.545」をにっこり笑って弾きはじめたんです。それで、彼の演奏を聴いたときに「え?!こんなに軽い曲なの?」ってビックリしたんですよ。ゾクゾクってしました。それが今でもすっごく残ってる。今音楽堂の事務所があるところが当時は楽屋だったんですけど、終演後そこへサインをもらおうと思って行ったらすごい行列で…。結局、遠慮しちゃってもらわなかった。今考えるともらっておけば良かったなぁ…と思って。

- 音楽堂の響きは、どんな印象でしたか。

その頃オーケストラも聴いたけど、例えばね、一番後ろの席で聴いても、バイオリンなどの譜めくりの「シュッ」っていう音が聴こえてくるんです。初めてのホールで、みんな集中して聴いているっていうのもあるかもしれないけど、でも、そのくらい上の方まで音が響いてきたんですよ。それには本当にびっくりしましたね。

- 当時のマロ先生の驚きが伝わってくるようです。
以来60年間変わらぬ響きを保ち続ける音楽堂で、今度は先生がステージにあがるお立場になられているというのも感慨深いですね。先生は現在「音楽堂・おかあさんコーラス」の顧問をなさっていますが、“おかあさんコーラス”は開館から6年後というとても早い時期に始まり、今年で54回を迎える老舗イベントなんですよね。

僕が“おかあさんコーラス” に関わるようになったのは20年前からで、その頃から実行委員会形式をとって開催しているんですよ。でも、おかあさんコーラス自体は比較的早い段階で音楽堂の自主事業として始まって、もともとは、県下の遠いところに住んでいて普段なかなか本格的なホールで発表ができない人たちにも、いい響きを知ってもらう目的で始めたものなんです。音楽堂は「ここで歌いたい」と思ってくる人たちの憧れのホールだったので、つまり歌いたいがために、今でもみんなこの紅葉坂を登って来るわけですよ(笑)

- なるほど(笑) そして、それは今も変わらず続いているわけですね。

作曲・編曲・指揮、マロ先生のハットトリック!

- 先生は合唱指揮者として以外に、作曲や編曲のお仕事もたくさんされています。

高校卒業後すぐ2年間作曲家の先生に就いて、作曲法を学んだことで編曲活動を始めました。ポップスを合唱用に編曲したりもしていて、そういうのをたまたま音楽之友社の方が聴きにきていて、訳詞や編曲の仕事をもらったり、教科書などにもいろいろと載るようになりました。だから、今年みたいに10年の節目に「マロの先生ハットトリック」のタイトルで作曲、編曲、指揮の3つにわけ、横浜のいろんなホールを使ってその集大成となる演奏会を開催しているんです。ちなみに40年の節目「マロ40」は音楽堂でやらせてもらいました。ここにパンフレットがありますよ。

私の大好きな空間 マロ40

- 素敵な写真ですね!

一番好きな場所

- それでは、時間も迫ってきてしまったので、最後の質問をさせてください。先生が音楽堂で一番好きな場所はどこですか。

それはもちろん、ステージの上ですね。
主婦でもないのに僕が言うのも変なんだけど、音楽堂のステージにいると、台所にいるみたいな感じがするんです。その空間全部が手の中に入るような、全部を抱ける感覚。だだっ広いよりも、ちょうどいい塩梅に抱きかかえることができる空間。お客さんを全部抱きかかえて、それで自分の方に引きつけられる。ちょうど、主婦の人が鼻歌を歌いながら料理をつくっているような気分にも近い感覚なんです。

- 素敵なコメントをありがとうございます。

指揮者活動を始めてから60年、駆け足ですが先生の個人史を辿ることで、音楽堂が誕生した当時の空気を感じ取ることができました。そして、この60年音楽堂が育んできた、ホールと人の豊かな関係性も垣間見ることができた気がします。

もうすぐ開催される「音楽堂還暦週間」では、マロ先生がご出演なさる「合唱の殿堂 県立音楽堂」 還暦記念演奏会も開催。他にも大好評の建築見学会や多彩なイベントが盛りだくさんです。(詳しくは下の関連イベントからどうぞ!)

創業67年の歴史をもつ老舗 センターグリルの「特製浜ランチ」

今回の取材では、マロ先生オススメのお店を教えていただきました。音楽堂よりも古い67年の歴史をもち、マロ先生の学生時代からある洋食屋「センターグリル」さんには当時からよく通われていたそうです。さっそくですが、マロ先生のオススメメニューはこちらの「特製浜ランチ(1250円)」。

センターグリル 特製浜ランチ
センターグリル

オムライス、チキンカツ、野菜、ポテトサラダが一皿に盛りつけられた、ボリューム、内容ともに充実した一品。とろとろの玉子がのったオムライスは見ただけでも食欲がそそられます。これだけ主役がそろっていても全然重くないのは、デミグラスソースと中のチキンケチャップライスの絶妙な味付けのおかげ。揚げたてサクサクのチキンカツとの相性も抜群でした。またランチメニューといいつつも、終日注文が可能なのも嬉しいところ。なお「浜ランチ」は今回いただいた「特製浜ランチ(1250円)」とは別に通常の「浜ランチ(1050円)」があり、オムライスの中見が白いライスとなります。このメニューの発端は、オムライスだけではなく、「チキンカツも食べたい」「サラダも食べたい」というお客さんのよくばりな要望を取り入れていった末に完成したとのこと。67年間愛され続けている理由は味だけではなく、昔ながらのスタイルを残しながらもお客さんとともに進化していくそのスタイルにあるのかもしれません。

□ 店舗情報 □
センターグリル
http://www.center-grill.com/
11:00~LO 21:15
定休日:月曜日(祝日営業)
〒231-0063 神奈川県横浜市中区花咲町1-9
045-241-7327

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