マグカルレポート in TPAM 2014/TPAMディレクション・横堀ふみディレクション
TPAMディレクションとは?
ユニークな活動を行なっている若手制作者をディレクターに選任、自由なコンセプトと新たな視点で作るプログラム。
それぞれのディレクションを通して同時代的アイデアや課題を共有し、ともに舞台芸術の可能性を考察する機会です。
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横堀ふみディレクション
・筒井潤+新長田で踊る人々『新長田のダンス事情』
・ショーネッド・ヒューズ『Aomori, Aomori』
KAAT神奈川芸術劇場<大スタジオ>
2.13 Thu 16:30/2.14 Fri 16:30
横堀ふみさんのディレクションは2作品あり、筒井潤+新長田で踊る人々『新長田のダンス事情』と
ショーネッド・ヒューズ『Aomori, Aomori』 の二本連続上演となっていました。
■筒井潤+新長田で踊る人々『新長田のダンス事情』
『新長田のダンス事情』とは2009年より開始した「新長田で踊る人に会いにいく」というコンセプトで、新長田で活動する様々なダンサーや踊り手を通してダンスや舞踊をリサーチし、新長田という地域を知るプロジェクトの継続企画であり、実際に新長田で活動しているダンサーの方達を演出家の筒井潤さんが紹介しながら新長田のダンスシーンを見せる企画でした。
まず会場に入ると大きなスクリーンの隣に公民館に置いてあるような長机とお茶請けセットが置いてあり、上演時間になると踊りが始まるかと思いきや奥からおばちゃ…いや少し年上の女性方が出てきておかしを食べながら談笑をはじめました。
いや、説明が難しくなるので正直に書けばどこかで観た事あるようなおばちゃん達によるお茶会。
通りがかれば確実に「アメちゃんあげる」と声をかけられる事は間違いないでしょう。
「いったい何かはじまるのか」と、劇場という空間で予想していなかった展開に私の興味はどんどん引き込まれていきました。
なおKAATでのプログラムに出演していたのは新長田では他者としての存在である筒井潤さんと通訳の伊藤拓さん。上で登場していた藤田幸子舞踊教室の皆さんとミャンマー料理屋を経営し、ミャンマー伝統舞踊の踊り手でもある北野マサァウィン。コンテンポラリーダンサーの西岡樹里。韓国の伝統舞踊ダンサーである趙恵美とパクウォン。
ちなみにまるで公民館のようなお茶会セットを用意したのはこの企画に協力してくれている藤田幸子舞踊教室へ取材に行くと、いつも沢山のお茶請けでもてなされ、肝心の稽古が始まる前にはお腹がいっぱいになってしまうという筒井さんのリサーチにおける実体験を再現したものなのだそうです。
まず演目の詳細を説明させていただくと、各ダンサーへのインタビューを上映後、トークを交えながら実際に目の前で踊りを披露してもらうというシンプルなプログラムでした。
それを聞くとただローカルなネタを紹介しているだけのように思えるかもしれませんが私はそうは思いません。
それは文章初めに「劇場という空間で予想していなかった展開」と書かせてもらったように私の中に「劇場で表現されるもの」という、ある一定のイメージが既に存在していたという事が重要なのかもしれません。
会場で配られた横堀さんのテキストを引用させていただくと、このディレクションでは
「日常の営みにおける一つの必然性」
「人々/ルーツ/共同体をゆるやかに接続するもの」
「劇場でなどで見せる行為としての踊りやダンス」を行き来する表現であるという視点
に注目したいとあります。
その点でこの新長田のプレゼンテーションはまさに生活の中にある「踊り」という営みの必然性、地域のルーツや共同体としての関係性を取材時の雰囲気をそのままに「劇場」という空間でプレゼンする事によってそれまで我々が知っていながらも意識していなかった部分への誘発が明確にされていたのではないかと感じました。
特に実際に踊っていただいた演歌(歌謡曲に)に合わせておどる「新舞踊」などは自身もテレビ含め、田舎の温泉センターやその他もろもろもよく目にしていたのですが、その踊りに対してのルーツなど意識した事もありませんでしたし、失礼ながら「踊り」としての認識をしていなかったかもしれません…。
今となってはそこに気づけていなかった自分が不思議でしょうがないくらいなのですが、今回の「踊り」という部分だけでも「伝統」など、ある程度言葉にして受け継がれているものもあれば感覚的に、受け継がれているものなど、言葉にできずとも日常のなかで必然として受け継がれ続けているものがたくさん存在するのではないかと思います。
「踊るということ」
その一番重要な部分の面白さと難しさを考えさせられる企画ではないかと思うと同時に、このプログラムよりますます踊りへの興味・魅力が大きくなった様に自身は思えました。
■ショーネッド・ヒューズ『Aomori, Aomori』
上記の続きとなりますが、会場のセッティグをし直し、続いてショーネッド・ヒューズ『Aomori, Aomori』が上演されました。
ショーネッド・ヒューズはロンドンを拠点に活動しており今回上演された作品は青森に滞在しながら地元の踊り手、演奏家たちと作りあげた作品であり、
『新長田のダンス事情』と同じように地域性に注目した作品でありながら、まさに真っ向から「地域性とコラボレーションした作品」ではないかと思います。
舞台装置はなく、そこにあるのはただ広い空間のみ。奥には津軽三味線の演奏者と歌い手が立っており、力強い津軽三味線の演奏と共に踊りは繰り広げられました。
踊りの特徴を率直に説明するならば「寝ながら踊る」、もしくは「地を泳ぐ」という例えがしっくりくるかもしれません。
ただ、寝ながら踊るダンサーと対比するかの様に一名のみ立って踊っているのですが、その二つの重力の方向性がまるで一つの踊りを様々な角度、時間軸で鑑賞しているようなイメージを彷彿させ、それが青森で作りあげてきた踊りの軌跡のようにも思えました。
また時折子供や大人達が通過していく光景は青森での人々との出会いを連想させ、投げ込まれる白い球は青森での雪景色を表現しているように思えます。
力強い津軽三味線演奏と、繊細で美しい完璧な呼吸が生み出すダンスはまるで床の上を泳いでいるような感覚に襲われ、踊りの美しさだけでなくショーネッド・ヒューズの持つ伝統への思いと青森での記憶が交差し合っているような様々な方向から楽しむ事ができるダンスのように思えます。
このように『新長田のダンス事情』『Aomori, Aomori』と「地域性」というキーワードが共通する演目でしたが、
この取り組む方向が違う2本の組み合わせは
「日常の営みにおける一つの必然性」
「人々/ルーツ/共同体をゆるやかに接続するもの」
「劇場でなどで見せる行為としての踊りやダンス」を行き来する表現であるという視点
をいずれもやさしく誘導しつつも、力強く提案する見事な組み合わせだったのではないかと思います。