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【連載】稲村ジェーンに乗りたくて(3)-桑田佳祐の「夏」を求めて-

【連載】稲村ジェーンに乗りたくて(3)-桑田佳祐の「夏」を求めて-
もう二度と見られないと思っていた、あの桑田佳祐監督作品が帰ってきた!
本連載はそれを祝し、また「桑田さんの見ていた湘南の原風景」を追い求めるチャレンジでありました。
あなたのこの夏は、暑かったですか?短かったですか?(筆者)

「秋が目覚めた」
この歌詞を想うたびに、我々の夏は9月から始まる気がしている。そういえば稲村ジェーンの公開も1990年の9月8日だった。あの日から何度目の…
 しかし、どうして茅ヶ崎の夏は、こんなにも秋が似合うのだろうか?
 すでに隋・唐代の高僧・道綽禅師は「どうして阿弥陀仏の浄土は西なのか?」という疑問に対して、西方は日の没する方角であり没する処を死と名づくとして、そこで死の帰するところは浄土であるという見解を説いている。夏の終わりと人生の終わりを重ねるのもまた、人間の情緒の為せる技なのであろう。
 2021年6月25日から始まった我々の「ジェーン」を求める夏が、終わりを告げようとしている。


(映画の時代頃の稲村ヶ崎 笠松紫浪「鎌倉 稲村ヶ崎」昭和31年『笠松紫浪-最後の新版画』芸艸堂蔵)

①他者論として
オズ:先生お久しぶりです!えっ…
アミ:えっ、先生!?なんで白タイツに白鳥の姿なんですか!?
教授:そう、私は次の職を考えているのだ。私は「目立ちたがり屋の芸人」でありたい。
アミ:やばい、先生、超エモい…
オズ:(どこかで聞いたことのある台詞だなぁ)
教授:さぁ、キミたち。この夏の答え合わせをしよう。どうしてお笑い芸人さん達の日常には、あれほどにも面白いことが起きているんだと思う?TVなどで見聞きするフリートークのネタ、我々にはあり得ないような事象、面白いことが日常的に起きているよね。
オズ:やっぱり芸人さんのような生き方をしていると、面白いことも起きやすいんじゃないんですかね?
アミ:私たちとは違う世界を生きているというか…
教授:本当にそうだろうか?先生はね、彼らは「お笑いのアンテナ」を常に張り続けているだけであり、我々と同じ世界、日常で、「オモシロさ」をキャッチするプロだと思うんだ。

【研究ノート1】
 本研究(連載)は「ジェーン」という映画内では具体的に示されていないその波について思惟し、桑田佳祐の中にある「夏」を探し求めるという体裁で始まった。
 この作業は一見、単なる映画評論と捉えられるかもしれないが、そうではない。「湘南」という住所にはない土地・エリア名、そしてその「湘南」から湧き出る誰しもの心にあろう「あの夏」の実像へ近づくための実践的な研究である。
 桑田は述べる。「彼女(※波子・筆者)が、はぐれサーファーのヒロシを叱責する場面があるんですよ。『他人を遠ざけて、静かな海に浮かんでいたってしようがないじゃない』って。小さな波にプカプカ乗ってバランスをとるんじゃなくて、ときには危険を承知でビッグウエイブもキャッチしなければダメだって台詞なんです。」(『With』1990年10月)という、ヒロインの立ち位置。
 映画内での主人公・ヒロシの口ぐせは「俺たち他人だから」だ。そう、この映画の鍵は「他者」との関係性である。
 我々は自己を見出そうとするとき、そこに「他者」がなければ自身を確認することが出来ない。この世界にたった一人だけで、私が存在したとして、その時私は「わたし」を認識できるだろうか?(否)。
 そしてまた自己を省みるとき、我々は疑似的に「他者」となる。「あぁ、ぼくはいま眠りたいと思っている」と考えるとき、その対象の「ぼく」と考えている僕とに一定の距離がある様に。

アミ:俯瞰的に見る、ということでしょうかね?
教授:そうだね、さっきのお笑い芸人さんにも仮に自己というものを想定するならば、そこから少し距離を置いた「オモシロ目線」から世の中を見ていると思うのです。
オズ:つまり…、ジェーンとは「他者」ということで良いのでしょうか!?
教授:うん、まず第一義的にはそう考えたい。桑田さんが『稲村ジェーン』を語る上でいくつかの映画作品の名を挙げているのだけれど、中でもジム・ジャームッシュ『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984年・アメリカ)や『バグダッド・カフェ』(1987年・西ドイツ)を観るとよく分かる。私には、「他者」との関係性が9割を占めている作品だと映りました。しかし…
アミ:しかし?
教授:もうひとつ当時、積極的な発言ではないのだけれども、名前を挙げている映画作品があってね。それが私の心にずっと引っかかっているのです。
オズ:というと?
教授:1987年公開、フランス・西ドイツ合作映画『ベルリン・天使の詩』ですね。


(パンフレットと映画前売り券。湘南ロックンロールセンターAGAIN蔵)

②他界からのまなざし
【研究ノート2】
 どんな傾向の映画にしたい?という質問に桑田は「レイジーで、地味なものが好き。
モノクロで、あんまりセリフが多くなくて、屈折した映画。視点をずらした究極のサーフ映画というか。」(『FM fan』1989年4月)と語っている。
 当初は本当に「『ストレンジャー・ザン・パラダイス』みたいなね。路地裏、裏街道…」(同上)や「最初は『ストレンジャー(中略)』みたいな地味な映画を目指してたからね。主人公同士がお互い名前を呼ばないような。ただ淡々とワンシーン=ワンカットで続くみたいな日常映画。」(『週間プレイボーイ』1990年8月)と語っているように、かなり芸術性の高い初期案が想定されていたと思われる。
 そしてそのモノクロという色使い絡みで注目したいのが「今ってさ、OLとか学生がデートで『ベルリン・天使の詩』なんかおしゃれして見に行っちゃうでしょ。オレたちの頃は『ジョーイ』とかだったのに。それだけ見る側のアンテナが鋭くなってるんだよね。」(『Can Can』1989年6月)という発言である。
 これはサザンとしてもっとマニアックなものをやってもいいのではないか?という「女神達への情歌(報道されないY型(ケイ)の彼方へ)」に対する発言ではあるが、すでに進んでいた映画制作との関連として注目したい。
 映画『ベルリン・天使の詩』は人間には見えない天使側からの視点(冥)をモノクロ、人間の視点・世界(顕)をカラーで表現した、世界的大ヒット映画である。
 日本では中世より冥顕という思想が明確になる。我々人間は通常、顕になっている部分の世界しか見ることができない。しかし実は冥なる世界が存在し、そこにいる神・仏・死者などが顕の世界に影響を与えているという世界観である。

教授:実は神戸のとある先生からね、この夏ご指摘を頂いたんです。
オズ:あ、調子乗り過ぎって怒られましたか?
アミ:(オズ君だめだよ、先生ナイーブなんだから…)
教授:いやぁ、目からウロコでした。映画ではサーフィンのシーンどころか波も描かれていないと言ったら
※連載1)、一箇所ありますよと。
アミ:え、ビックウェーブなんて映っていましたか!?
教授:慌てて『ドキュメント・オブ・稲村ジェーン』を再度確認したら、確かにジェーンが出てきている。それは桑田さん自身が海側から揺れ動くクレーンに乗ってカメラで岸側を写しているという画なのです。そう、つまり私たちはジェーンからの視点で岸側(この世)の様子を見せさせられていたんですよ。
オズ:なるほど!ジェーンという波の画ではないけれど、ジェーンは登場していたんですね。
教授:うむ、それで気が付いたんだ。そうか、ジェーンは他界からのまなざしであったのかと!
アミ:他界というのはどういう意味でしょうか?
教授:さきほど「他者」というワードが出てきたけれども、「他者」は他人だけじゃない。目には見えないかもしれないけれど、神や仏、そして死者も「他者」なのです。
オズ:自分以外の何者か、という意味になるんですかね。
教授:はい、そこで重要なのが映画『ベルリン・天使の詩』です。この映画では永遠の命として生き続ける天使(死者)が、生者の傍らに佇み、憂鬱な表情でこの世を見ているんです。天使たちは永遠の中にいるので、「今」だったり「ここ」という一瞬を味わうことができない。生きていたときには埋没していて気がつけなかった恋の楽しみや、苦しみ。一瞬一瞬の稀有さ、この世の驚異、いとおしい非凡さを、死者の眼を通して教えてくれるのです。この他界からのまなざしこそ、桑田さんがジェーンを通して我々に見せたかったんじゃないかと。


(劇場用スチール写真と実物の台本。湘南ロックンロールセンターAGAIN蔵)

③若者と大人、生と死の「あわい」
【研究ノート3】
 桑田はインタビューで次のように語ったという。「ただ若者っていうのはいつの時代も、結局、なにかを待っているんだよね。なにかを自分で始める知恵をもってる人は若者じゃないんだよ。」(『女性セブン』1990年9月)と。
 我々が波に乗りたいと思った時に、自ずから起こってきた波に気が付き乗るか、自分自身で波を起こすしかない。桑田の先の言葉を解釈するならば、大人とは自身の力で波を起こすことができる存在をいうのだろう。
 連載2でも述べたように、人生においてビッグウェーブなんてものは滅多に来ない。そして若い頃には、日常のさざ波にも気が付くことが出来ない。プロデューサーの森重晃は桑田の言葉として「『青春とは自分の波に出会ったときに、その波を体で感じることができるかどうかだ』っていってましたね。」(同上)と語る。
 つまり我々は退屈な日常の中で、若者と大人のあわい(間)に生きているのである。そして波を感じている限り、ずっと青春でいられる。99%退屈な日常ではあるけど、なにか面白いことを探し、夢を見続けることはできるのだ。
 さらにジェーンは我々に教えてくれる。この今一瞬の偶然性、命の素晴らしさ。「何かを海が言おうとしているんですよね、答えを。でも、そんなの分かるわけない(笑)」(『平成NG日記』1992年6月)と、桑田は答えを海(波)に任せているが…。そのかけがえのない一瞬一瞬の答え(波)に出遇うことによって、退屈な、永遠なる青春時代が肯定されていくのだ。

教授:私は最初、魑魅魍魎が出てくるクライマックスの意味が分からなかった。
アミ:え、踊り!って思いますよね。
教授:しかしこの夏、ようやく私なりの解釈にたどり着きました。ジェーンからの画を含め、あそこで他界からのまなざしになるんです。これは世阿弥の手法ととても良く似ています。彼の能における位相転換は「舞」です。専門用語では「離見の見」という、他界からのまなざしパートに入る。
オズ:ヒロシももう「他人だから」とは言わず、他者と生きている喜びの中にいますよね。
教授:ちなみに能舞台は、観客席との間に白洲があり、後ろにある板(鏡板)には松が描かれています。湘南だよね(笑)桑田さんはTV番組でクライマックスについては「日本のリオのカーニバル、生と死のはざまにある狂気に興味がある」(『稲村ジェーンスペシャル!桑田佳祐が語る~風と波と音楽の物語~』)とか、鎌倉が舞台なので「実生活に妖怪がときどき影響を与える距離感」(同上)等を表現したかったと言っています。
アミ:骨董屋の主人が亡くなるのが、そのシーンですよね。あそこでマスターの世代の波が20年を経ておさまった気がしています。そして「マスターの大波と一緒じゃん」と言っていたヒロシの世代の波が立ったと言えばいいのか…
教授:その二世代にわたり寄せては返す波こそが波子であり、ジェーンの正体だったんですよ。
オズ:やりましたね教授!たどり着けたじゃないですか!!
アミ:お疲れさまでした!
教授:さて、来年の夏が始まりましたよ。課題を発表します。
二人;えーっ、また何かやるんですか!?

※この物語はフィクションです。

おわりに 寄せては返すジェーンのように
 本稿を執筆中に筆者が代表を務める湘南ロックンロールセンターAGAINが制作をしました、JR相模線茅ケ崎駅の新・発車メロディー「海 その愛」が実際に駅のホームで流れはじめました。
 加山雄三さんの楽曲ではありますが、その「海に抱かれて」とはじまる岩谷時子先生の歌詞にも、本連載のおかげで新しい解釈が私の中で生まれました。
 他界を海(波)とするならば、それを「すべての命」と考えることが可能です。「海に抱かれて」とはこれまで、また今もあり続ける「すべての命」に支えられて生かされていることである。そしていずれこの私も、その大いなる海へとかえっていく時が来るのです。
 寄せては返す、命の物語。連綿と続くその歴史の中に今、私がいる有り難さ。たまたま加山雄三さん、桑田佳祐さんが新曲を出した2021年に生かされている奇跡!最高だなぁ。
 ぼくら平成世代に映画「稲村ジェーン」を見せてくださり、また「暑かったけどヨゥ、短かったよナァ、夏」と言わせてくれて、ありがとう桑田さん!!

執筆:釈順正(湘南ロックンロールセンターAGAIN会長・仏教学者)

平成元年、茅ヶ崎市の寺生まれ。専門は日本浄土教・日本思想史。サザンオールスターズ40周年を記念して桑田佳祐、加山雄三、加瀬邦彦、尾崎紀世彦などの茅ヶ崎サウンド文化をまとめた書籍『ぼくらの茅ヶ崎物語:日本のポップス創世記 茅ヶ崎サウンド・ヒストリー』をシンコーミュージックより出版。
現在、毎週月曜日22:10〜鎌倉FMにて「湘南ロックンロールセンターRADIO」のメインDJを務める。
公式サイト:https://www.srcagain.com/

編集協力:
田﨑亜実
小澤大器
(湘南ロックンロールセンターAGAIN研究員)


稲村ジェーンに乗りたくて(1)-桑田佳祐の「夏」を求めて- こちら
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