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【連載】稲村ジェーンに乗りたくて(1)-桑田佳祐の「夏」を求めて-

【連載】稲村ジェーンに乗りたくて(1)-桑田佳祐の「夏」を求めて-
VHS・レーザーディスクでしか発売されておらず、もう二度と見られないと思っていた、
あの桑田佳祐監督作品が帰ってきた!本連載はそれを祝して、この夏をいかに楽しむか、
また「桑田さんの見ていた湘南の原風景」を追い求めるチャレンジでもあります。
どうぞコーラ片手に、お楽しみいただければ幸いです。(筆者)

ここは茅ヶ崎市立ブランディン大学、湘南文化研究室。
私は教授として湘南の音楽カルチャーを軸に、歴史学と思想史という両側面のアプローチから、世のため人のためにならない研究を進めている。
夏季試験の採点も終わり、今年こそは「湘南の夏」とやらをのんびり満喫しようと背伸びをしていたその時…、とんでもないニュースが飛び込んできた。

「あの夏のビックウェーブが甦る」

アミ:先生、夏休みに研究室へ呼びつけるなんてヒドイですよ〜
オズ:しかも何ですか、あのメール。「松だ!松の木だっ!」って…
教授:すまない。しかしどうしても今、この夏に、君たちにたってのお願いがあるんだ。
アミ:何ですか、お願いって。
教授:実はだね…、私はジェーンに乗りたいんだ。
オズ:はぁ?

①30年目のエモーショナル
教授:君たちは「茅ヶ崎映画祭 ※1」には行けたのかい?
オズ:はい!2人ともなんとかチケットを手に入れて見ることが出来ました。
教授:そうか、私もはじめて大きなスクリーン、大きな音で観ることが出来てね。
アミ:先生もいらっしゃったのですね!
教授:うむ、リマスタリングされた映像に吸い込まれたね。VHSでは『ハワイの若大将』のポスターとかに気が付いていなかったんだ。教授失格です、辞表を書きました。
オズ:ちょっと!ちょっと待ってください。
アミ:やばい、先生、超エモい…
教授:そこでだ、最後の仕事としてこの夏、この研究を2人に手伝ってもらいたい。
2人:(ゴクリ…)
教授:「稲村ジェーン」って、一体なんなのさ!?

※1 2021年6月25日、サザンオールスターズのデビュー43周年記念日に、「茅ヶ崎映画祭」の10周年記念特別招待作品として上映された。

【研究ノート】
 1988年6月25日、24th Single『みんなのうた』をひっさげてサザンオールスターズは10周年。3年ぶりの復活を果たした。この頃の桑田佳祐の発言を見ると原点回帰というテーマが多い。学生時代からのバンド活動が、もはや「メンバーだけでは収まりきらない大きさ」になっていた中で、自らのライフワークに即した楽しみ方(生き方)を模索しているのが伺われる。
 それは、声高らかに「3年前に死んだかと思われたサザン、しっかり生きてるエネルギー、お見せします」と宣言しつつ、「ただ、サザンというバンドのブランドにしがみついていくのはいやです」(『non・no』1988年7月)という姿であった。
 当シングルと夏からのツアー「大復活祭」を前に、大学時代からの友人でもある音楽評論家・萩原健太は「桑田はいま、音楽を個人的な世界でいちばん楽しんでいた高校や大学時代に戻りたいという気持ちがあるみたいです(中略)キーワードは“70年代ポップス”ですね」(『GORO』1988年5月)と述べている。桑田にとっての青春はまさに70年代であり、ジェーンの時代設定である1965年はまだリアルタイムではない。
 ここに一つ、桑田佳祐の60年代に対する憧れをみることも出来るだろう。やはり、ビートルズがいたあの時代である。桑田は翌年89年に出す27th Single『フリフリ’65』に対して、65年が好きな理由はビートルズの『HELP』のリリース年であり、そこでジョンが麦わら帽子をかぶっていたのが、とてもナチュラルで好きだったからという。
 桑田にとって、この60年代と70年代の分かれ目は非常に大きい。70年のはじまりはビートルズの解散であり、中学2年生だった自身は「今までの価値観がズレちゃって」と述懐する。この価値観とは、それまで健全に見えていたポップスの世界が、純粋なラブソングから不倫ソングへと移り、「不倫あり(中略)なんでもありで、世の中がゲテモノ化してくのを見ちゃった気がする」(『コスモポリタン』1988年10月)といったものだ。
 学生運動の時代もとうに終わり、不良にも優等生にもなれない。そういった青学時代を送りながら、1978年にデビュー。芸能の世界で目まぐるしい80年代を送りつつも、ポップス、普遍的なモノゴトを桑田は好んだ。もっと無邪気で簡単なものでいい。87年に松田弘とニューヨークへ行き、向こうの音楽家たちのピュアさに触れ「だから『勝手にシンドバッド』はかなり偉大なポップソングだなという、そんな気持ちにもなれたと思う」(『エスクァイア日本版』1987年12月)と述べている。
 しかしバンドとしては常に今を生きようとし、新しいことを求め続ける。これこそがサザン10周年の意義であったと考えられる。バンドを続けるための努力、向上心。
 まず桑田は新たなる音楽の「場」を考えた。
 当時、アミューズの映画部門として設立されたアミューズ・シネマ・シティでは「アミューズ・10ムービーズ」という連続映画企画が行われていた。福山雅治が88年、この企画におけるオーディションで合格しアミューズ所属になったのはよく知られる(ちなみに福山も『稲村ジェーン』オーディションに参加していた)。この流れで富田靖子主演の『アイコ十六歳』以降87〜88年頭にかけて桑田が関わる映画企画の話が持ち上がったと推測される。
 ファンへの第一報は会報誌でも、TV・ラジオなどのメディアでもなく、なんとLIVEのMC。上述の88年「大復活祭」千秋楽、9月19日横浜スタジアム公演。3年間待たせたファンへのお土産として「俺たちは日本一の監督と映画を作るぜ!」であったという。

②伝説の波
教授:ということで、映画もはじめは「音楽の監修」という関わり方が想定されていた様なんだ。
オズ:そういえば89年、25th Single『女神達への情歌 (報道されないY型の彼方へ)』はビデオシングルという形でも発売されてますね。
アミ:その次のSingle『さよならベイビー』は映画『彼女が水着にきがえたら』の主題歌だし…
教授:そう、つまりPVを作品に昇華させて世に出す、また映画という映像を新たな「場」として選んだ。彼は当時「音楽が生きるメディアを自分で探したい」(『Fm fan』1989年4月)と言っているね。
オズ:最近はPV(プロモーションビデオ)という言い方ではなく、MV(ミュージックビデオ)という方が主流ですよね。まさにこれって、MVなんじゃ…
アミ:自分で音楽を作って、映像を演出、監督、そして出演って…
教授:うん、令和3年現在の音楽カルチャーのあり方、そのものだね。若手アーティストが自分のPC、スマホでやっていることと変わらない。誰よりも早く、桑田さん・サザンはそこに気が付いていたんだと。
アミ:異業種監督と言うんですかね?今日では当たり前のように芸人さんが映画を作ったりしていますが。桑田さんの、このアンテナの鋭さ…
教授:当時はまだ異分野で映画監督をして、成功したという例は少なかったでしょう。1989年1月8日から平成になりますが、まさにこの年は「映像元年」なんだ。
オズ:そこで桑田さんは故郷である湘南を舞台として、伝説の波をテーマにした映画を作ると。
教授:ええ、忌み嫌ってきた「湘南サウンド」という言葉と対峙するわけですな(笑)さて映画の内容は君たちも観たから知っていると思いますが、この「波」は一体なにを示していると思う?
アミ:「ジェーン」とは何か?という問題ですね。
オズ:結局この波の「画」はしっかりとは出てこないんですよね…
教授:よくこの映画では「サーフィンのシーンがない」と言われるけど、それどころじゃない。「ジェーン」という「波」でさえ、明確には描かれていない。最高ですよ。
アミ:何かヒントはないんでしょうか?
教授:こういった質問に対して彼は「男女のセックスと言い表してもいいし、時代の波と置き換えてもいいような、抽象的なもの」(『文藝春秋』1990年9月)、60年代だろうが80年代だろうがいつの時代にもある辛さを前提として「そのストレスをはらしてくれるのが、もしかして”幻想の波”かもしれないしね」(『GORO』1989年2月)だったり、はたまた「カタルシスの象徴です」(『SPA!』1989年3月)と…。
オズ:何なんでしょう?
アミ:カタルシス…
教授:おっと今日も「赤とんぼ」のチャイムの時間に。次回は「ジェーン」が何を示しているのか、じっくり考えてみましょう。

※この物語はフィクションです。

執筆:釈順正(湘南ロックンロールセンターAGAIN会長・仏教学者)

平成元年、茅ヶ崎市の寺生まれ。専門は日本浄土教・日本思想史。サザンオールスターズ40周年を記念して桑田佳祐、加山雄三、加瀬邦彦、尾崎紀世彦などの茅ヶ崎サウンド文化をまとめた書籍『ぼくらの茅ヶ崎物語:日本のポップス創世記 茅ヶ崎サウンド・ヒストリー』をシンコーミュージックより出版。
現在、毎週月曜日22:10〜鎌倉FMにて「湘南ロックンロールセンターRADIO」のメインDJを務める。
公式サイト:https://www.srcagain.com/

編集協力:
田﨑亜実
小澤大器
(湘南ロックンロールセンターAGAIN研究員)


稲村ジェーンに乗りたくて(2)-桑田佳祐の「夏」を求めて- こちら
稲村ジェーンに乗りたくて(3)-桑田佳祐の「夏」を求めて- こちら

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