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演劇・ダンス

TPAMディレクション ディレクター:タン・フクエン インタビュー

TPAMディレクション ディレクター:タン・フクエン インタビュー

アジアの舞台芸術作品の国際的なプラットフォームとなることを目指して1995年に立ち上がったTPAM(国際舞台芸術ミーティング in 横浜)は、同時代の舞台芸術に関わるプロフェッショナルが国や地域を超えて出会い、公演、ディスカッション、ミーティングなど多彩なプログラムを通して、情報交換や相互学習、ネットワーキングを行ってきた。20周年を迎えて2月に開催された今年のTPAMでは、ユニークな活動を行っている制作者をディレクターに選任して、自由なコンセプトと新たな視点で作る「TPAMディレクション」のディレクターのひとりに、バンコクを拠点にアジアやヨーロッパで多くのプロジェクトを手がけるインディペンデント・キュレーターのタン・フクエンを迎えた。近年国際的にも注目を集める東南アジアのパフォーミングアーツの一端を紹介するプログラムで好評を博したタン氏に、全プログラム終了後に話を伺った。

2015.5.25 interview&text:小林英治
photo:西野正将

TPAM初の海外ディレクター

―――タンさんは「TPAMディレクション」のプログラムで、初めて海外から選出されたディレクターとなりました。TPAMから依頼された経緯とプログラムに期待されたことは何でしたか?

私はTPAMが始まった20年前からフォローしていましたし、特にここ5年くらいは毎年じっくり観てきたので、そもそもTPAMが目指すものを理解しているということがあったと思います。具体的な要望としては、TPAMディレクションのプログラムの中で、東南アジアのタイムリーなアーティスト、そして彼らが持っているテーマや興味は何かということにスポットを当ててプログラムを組んで欲しいという依頼がありました。

―――アーティストを選ぶにあたっての基準は?

今回に限らず、私のキュレーターとしての基本的なアプローチは、何年も対話をしながらアーティストとの関係を築いていくということにあります。私が見ているのは作品だけではなくて、アーティスト自身であり、またアーティストがどういうアプローチで作品をつくっているのか、どういう興味をもっているのか、どういうようにアイデアを具現化していくのかということです。そういう意味で、とても対話というものを大事にしているんですね。今回選んだ中では、アイサ・ホクソン(フィリピン)の場合、彼女のここ数年にわたるパフォーミングアーツに関するプロダクションはすべて私が手がけています。ムラティ・スルヨダルモ(インドネシア)とは7,8年の関係性がありずっと作品を観てきましたが、一緒に仕事をするのは今回が初めてです。エコ・スプリヤント(インドネシア)は、まず去年の11月に今回の作品の完成前の段階のものを観る機会がありました。その後エコと対話をしながら、彼がこの作品をより完成度の高いものとして形にしたいと考えてることがわかり、私もその可能性を強く感じました。そこでTPAMのコミッションワークとして正式に彼に委嘱し、今回「Cry Jailolo」として作品が完成しました。

「東南アジアらしさ」とは

―――「東南アジア」とひと言に言っても多様性があるとは承知していますが、タンさんから見て「東南アジアらしさ」というものがあるとしたら、特に「アジアの中の東南アジア」を定義するとしたら、どんな特徴があるのでしょうか。

東南アジアを作り上げたであろういくつかの要因――1世紀にわたる植民地主義を経験し、その後に起きた民族主義や軍部による独裁政治、急激な都市化、新自由主義とグローバリゼーション――こういったさまざまな形での暴力の歴史は共通点として挙げることができるかと思います。とはいっても、ひと言でこれと言い切ることを挙げるのは難しいと思います。まあ、熱帯性気候ぐらいですかね(笑)。気候は人々の物事の捉え方に影響を及ぼします。

タン・フクエン

―――とはいえ、世界的に見ても、近年のアート界や映画、舞台芸術といった分野で、東南アジアから注目すべき作品が次々と輩出されていると思いますが。

特に近年アートの世界での注目は確実に東南アジアにシフトしました。ただ映像や映画の場合と、パフォーミングアーツの状況は少し違います。映画の場合は、デジタル革命によって若い映像制作者たちがインディペンデントで作品を製作し発信することができるようになったという要因があると思います。それに比べてパフォーミングアーツはもう少し動きがゆっくりで、それは言語、文化的コンテクストや製作構造の違いに関連しています。映像は配信しやすいということもありますが、パフォーミングアーツはやはり生で観ないと充分に伝わらないところがあるので、作品を届けられる範囲が限られています。そういった意味でも、TPAMは、アジアのパフォーミングアーツを世界に伝えていく大事なプラットフォームだと考えています。それは彼らの献身的な取組みに明確に表れています。

Work in Progress 「Host」

―――アイサさんやムラティさんは今回と同じ作品をヨーロッパでも発表してきていますが、日本で発表する場合にプレゼンテーションする際のコンテクストに違いはありますか? あるいは今回日本で発表したときの反応で違いを感じたことなどありましたら教えて下さい。

もちろん違いはあると思います。とりわけ、滞在制作を通して作られた『Host』に関しては、日本で働くフィリピン人エンターテイナーに見られる「ジャパゆき」現象の調査がベースになっていて、そもそも扱っているテーマや、言語や記号、作家が探ろうとしている「日本人らしさ」みたいなものについて、日本の観客はリテラシーを持っています。ですから、ポストパフォーマンストークでは、日本の鑑賞者からより強い反応がありました。この作品が主に伝えようとしている、ジェンダーとサービスがどのように具体化され、演じられているのかという問題は、文化的に暗号化されているので、例えばヨーロッパ人よりも日本の鑑賞者によって吟味されるべきです。アイサはまずワークインプログレスの状態でこの作品を発表し、文化によって認識が異なること、そして様々な批判を考察しながら、作品を完成させました。

アイサ・ホクソン『Work in Progress “Host”』TPAM2015

アイサ・ホクソン『Work in Progress “Host”』TPAM2015/Photo: Hideto Maezawa

アジアと西洋、伝統と現代

―――アートがそうであるように、パフォーミングアーツでもまずは西洋の価値基準や枠組みを踏まえた上で表現しなければいけないという問題があると思います。そこにいわゆるアジア的な身体や歴史に関する問題意識をどう持ち込むか、かつて舞踏が日本から世界の他の地域へと出現していったように、今回のプログラムでもそこが興味深く、新しいものが生まれてくる可能性を感じました。

伝統と現代という二つの相反するものが融合して新しい表現が生まれます。現代アーティストたちは皆、こうした豊かな状況とそれがもたらす影響を作品で提示していると思います。ポラリゼーション(分極化)やハイブリディティ(混成性)という遺産がもたらした基礎的条件は必然的に、場所の真実性を作り出していて、アーティストは、そのリアリティや切迫感を明確に表現しようと意欲的に取組んでいます。これが東南アジアのパフォーミングアーツの発展に大きな影響を与えています。

エコ・スプリヤント『Cry Jailolo』TPAM2015

エコ・スプリヤント『Cry Jailolo』TPAM2015/Photo: Hideto Maezawa

―――今回の日本の他の作品と比べて考えると,アイデンティティの問題というのが、特に重要なテーマなのだということを感じましたがいかがでしょうか。

アーティストはパフォーマンスを作ることによって自分のアイデンティティを確認します。たとえば『Cry Jailolo』ですが、ジャイロロというのは非常に辺鄙なところにある離島で、インドネシア人からも一種のエキゾチズムの目で見られるようなところなんですけど、振付をしたエコ・スプリヤントは、彼らと協働し、トレーニングを行い、彼らを周辺地域から都市に連れてくることによってジャイロロの伝統や文化について話合い、神秘性を取除くということをしています。インドネシア諸島における表現と可視化という角度から見れば、非常に政治的な作品です。

身体だからこそ伝わる表現

―――今回のプログラムは、どれも観る人によっていろんな解釈ができる、良い意味での余白みたいなものがある作品だったと思います。

やはりこれらのパフォーマンスが「身体」というツールを使って表現しているということが非常に面白い点だと思います。ただ「身体」についてトークをしているわけでもなく、難解な理論を展開しているわけではなく、理屈抜きに身体というものを使って直接的に表現し、鑑賞者の集中力を持続させることで、芸術的ステートメントを伝えていきます。

タン・フクエン

―――ネットなどで動画を見ることもできますが、やはり生で実際にパフォーマンスを観るのでは全然違いました。

その通りです。先ほどアジアとヨーロッパでのプレゼンテーションの違いという話がありましたが、大抵アジアの表現には、より強い情動、苦心と内面からのエネルギーが感じられます。今回のTPAMコプロダクションの中の『ピチェ・クランチェンと私』という作品では、まさにそのテーマを扱っていました。コンセプチュアルな西洋と、一見直感的なアジアという二つのものが対話をしたという作品です。もちろん、こうした単純な二極化に終わらず、その違いをもっと深いところから分析しようとしています。

―――アジアの身体は、なにかこちら側にジワジワと浸透していく感じがします。アイサ・ホクソンの「Host」でも、春画を立体的に表現したというパートが他のダンスの表現より迫ってくるものがありました。

もう一つ西洋との比較で言えば、儀式や儀礼というものが、西洋に比べればまだアジアでは強い効力があるんじゃないかと思いますね。それは極めて、肉体的かつ感情的で、隠喩的で非言語的な性質を持っていて、自我の問題に関係しています。しかし、今日のアジアを生きるアーティストの中には、こうした状況を熟考し、心と身体、思考と肉体、発想と行動の間をうまく切り抜く方法を見出そうとする人たちがいます。

―――『Death of the Pole Dancer』もポールを立てるところから始まって、それ自体が小さな儀式みたいな感じがしました。

おっしゃる通りです。ただ、この作品でより重要なのは、まさにそのポールを立てたあと、私はポールダンサーじゃない、みんなが思っているクリシェを見せたくないと、ポールダンサーに重ねられる典型的な女性像や表象を否定する、それに抗うということを彼女はしています。

アイサ・ホクソン『Death of the Pole Dancer』TPAM2015
アイサ・ホクソン『Death of the Pole Dancer』TPAM2015/Photo: Hideto Maezawa

インディペンデントであること

―――あなたのキュレーションでは、特にインディペンデントであるということを重視しているように感じましたが、クリエイションにとって、インディペンデントであることとはどういう意味があるのでしょうか。

インディペンデントであるということは非常に重要なことです。より具体的には、自分を中心に意見を持つことができ、行動することができる、という意味でまず重要です。それと同時に、ひとりであるということは孤独であることではなくて、アーティストやインスティテューション(公共施設)などと必然的にコラボレーションすることにつながります。同時に、一種の媒介者としての役割を果たすためには、独立した存在であることの強みを生かした活動ができること、そして自分が賛同できないことには反対しなくてはなりません。これが、インディペンデントであることの必要不可欠な条件になります。

タン・フクエン

―――自立という点では日本の方が弱い気がしていて、今回のタンさんのディレクションする作品を見ても、また、あなた自身の活動に対しても強いリスペクトを感じました。

「自由」というものは常に対話を必要とするということです。すべてひとりでやるのではなく、常に対話をし、対話から関係性をつくり、それをしかるべきペースで発展させて、最後に意味を持ったものに着地させていくということ。その運動を常に続けていかなければならないということを、私は強く認識しています。つまり「自由」であるためには、たくさんのつながり、知識とリソースを持っていなければいけないということです。この「自由」は、私にとって非常に大事なものです。

―――最後に、今後のTPAMについて期待すること、ご意見がありましたらお聞かせください。

「日本とアジア」、「日本と東南アジア」ということではなく、このイベントを通してお互いが相互につながり合うネットワークを作るということを今後していかなければいけないと思います。もちろん、地理的な問題やいろんな摩擦もあって容易なことではありません。ユートピア的な話をしているのではなく、安心して共に話合い、向いあうことのできる構造づくりに向かって、お互いの違いを理解し合い、共に可能性を共有し拡大していく地道な努力が必要です。

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