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鎌倉殿のゆかりの地をめぐる

鎌倉殿のゆかりの地をめぐる

神奈川県には、多くの名所・旧跡があります。
主だったところでは、東部には幕末に鎖国している日本において、最も早くその港を開き、その後鉄道が一番早く敷設された文明開化のシンボルといえる横浜。中部には、武家政治の始まりの地である1000年の古都鎌倉。西部には、戦国時代に関東の覇者とその名を馳せた北条氏が本拠とした小田原、奈良時代から歴史を紡ぐは名湯箱根。この他にも神奈川県内には数多くの名所・旧跡が存在します。その魅力をどこから紹介していこうか迷っていましたが、令和4年のNHK大河ドラマが「鎌倉殿の13人」なので、彼らにまつわる鎌倉の観光スポットについて、ご紹介します。

ちなみに、ご存知の方も多いと思いますが、「鎌倉殿」とは鎌倉幕府の将軍のことです。
1180年に富士川の戦いで平家軍を破った源頼朝は、源氏ゆかり地である鎌倉にその拠点を置きました。鶴岡八幡宮を現在の場所に遷し、自身の居住する大倉御所、軍事・警察機能を司る「侍所」を設置し、頼朝は「鎌倉殿」と呼ばれるようになりました。


スポット1 由比若宮(元八幡)

源氏と鎌倉の本格的な縁は、この八幡の建立をもってはじまります。河内源氏の祖・源頼義は前九年の役の戦勝御礼として、1063年京都の石清水八幡をこの地に遷移しました。これが由比若宮です。当時はこの八幡の前は海岸線だったと伝わっていますが、現在は住宅地となっており、ひっそりと佇んでいます。
⫯ 神奈川県鎌倉市材木座1丁目7


スポット2 鶴岡八幡宮
(画像:TokyoDayTrip Kanagawa Travel Info より)
1180年、鎌倉を本拠とした源頼朝は、由比八幡にすぐさま詣で、その宮を内陸の小林郷北山に遷しました。これが現在の鶴岡八幡宮となりました。鶴岡八幡宮は源氏のみならず、坂東武者の守護神として尊崇を集めた場所であるとともに、静御前が源義経を思い、舞った場所でもあり、三代将軍源実朝が二代将軍源頼家の忘れ形見である公暁に襲われ、源氏将軍が途絶えた場所でもあり、鎌倉の歴史と深くかかわっているスポットです。
⫯ 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1−31
※ 静御前といえば・・・令和3年8月7日にライブ配信した公演「静、愛と死」もぜひご覧ください!
  関連ページ:こちら
  動画:こちら



スポット3 若宮大路(段葛)

若宮大路とは、鶴岡八幡宮から由比ガ浜まで直線延びており、1182年に源頼朝が京の朱雀大路を参考にして造成され、頼朝はこの若宮大路を中心として鎌倉の造営を行う意図があったといわれています。若宮大路の最大の特徴は、段葛と呼ばれる一段ほど石段で高くした通路です。当時懐妊していた頼朝妻である北条政子の安産祈願のために造られたとも、雨などで土砂や水が流れ込んで、歩きにくかったため、その利便性向上のために造られたともいわれています。当時は鶴岡八幡宮の社頭から一の鳥居まで約1300メートルにわたり敷設された大規模なものでした。(現存するのは、480メートルほどとなっています)
⫯ 神奈川県鎌倉市御成町4 付近


スポット4 大倉御所(大倉幕府)
鎌倉に入った源頼朝は、大倉の地に居を構え、この地で政務を執るようなりました。そのため、この地はのちに大倉御所(大倉幕府)と呼ばれるようになります。この地は、頼朝の祖先・源義家がかつてこの地に居を構えており、頼朝がこの地に御所を建てた理由ともいわれています。この地には侍所も設置されており、十三人のひとりである和田義盛が別当(長官)となり、この地を中心とした統治が開始されました。御所の周囲は、畠山重忠、三浦義村(十三人のひとりである三浦義澄の子)、和田義盛など有力御家人の屋敷があり、守備にあたっていました。
⫯ 神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目


スポット5 法華堂跡(源頼朝の墓)

源頼朝は、御家人・稲毛重成が亡き妻の供養として相模川に架けた橋の落成式に参加し、帰途の稲村ヶ崎で落馬し、それが原因で1199年1月に53歳で亡くなったといわれています。吾妻鏡にもその死因は記載されておらず、詳細は分かっていない謎とされています。現在の墓標は、江戸時代に島津重豪が建立したものです。法華堂跡は史跡指定されており、頼朝の墓のほかに、十三人のひとりである北条義時の墓も同地帯に存在します。
⫯ 神奈川鎌倉市西御門2丁目

神奈川県内には、上記でご紹介した場所以外にも源頼朝にゆかりのある地は数多くありますので、また次回ご紹介いたします。

※記載しているコラムの内容には、諸説あることを申し添えます。

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