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文化・歴史

鎌倉殿とゆかりの地―北条時政と梶原景時のゆかりの地をめぐる

鎌倉殿とゆかりの地―北条時政と梶原景時のゆかりの地をめぐる

今回は主人公・北条義時の父である「北条時政」と頼朝に重用され、厩別当(飼育している馬を管理する長官、責任者)や侍所所司(別当を補佐する次官)を務めた「梶原景時」のゆかりの地をご紹介します。

スポット1 北条時政ゆかりの地:石橋山古戦場
国道135号線から脇道に入り、100mほど進むと、相模湾を一望できる高台に「石橋山古戦場」の石碑が現れます。ここは頼朝が大庭景親軍と戦った場所です。

以仁王による平家追討の令旨に応じた源頼朝は、伊豆の韮山で挙兵し、初戦の山木氏との戦いに勝利したのち、相模国湯河原まで進み、そこで大庭景親軍と対峙し、石橋山の戦いを迎えます。

この戦いは、北条時政と大庭景親の「言葉戦い」から始まります。その内容は、北条時政が「大庭は源氏に付き従ったものであるはずなのに、なぜ源氏の嫡流たる源頼朝に弓引くのか」と口上し、大庭景親も「昔は主従であるも、平氏からの恩はとてつもなく大きく、簡単に裏切ることはできない」と返したそうです。(北条時政には印象的なエピソードがいくつもありますが、わたし自身、この言葉戦いは時政の最大見せ場の一つだと感じています。)

そして戦いが始まり、大庭軍3000人に対し、源頼朝軍は300人で奮戦しますが、衆寡敵せず戦いに敗れ、北条時政の嫡子・北条宗時や佐奈田与一義忠などの家臣が討ち死にしてしまうのです。
📍神奈川県小田原市石橋

スポット2 北条時政ゆかりの地:江ノ島岩屋
江ノ島の最奥部に位置する洞窟で、古くは弘法大師や日蓮上人が修行した場所として伝わる場所です。

北条時政はこの岩屋に参籠し、子孫の繁栄を祈願したといわれています。すると、時政の目の前に天女が現れ、「一族は日本の主として繁栄する」と告げ、大蛇となって海に消え、そこには3枚の鱗が残されていました。予言に大変喜んだ時政はその鱗を家紋として、有名な北条氏のミツウロコ紋が生まれたといわれています。
📍神奈川県藤沢市江の島2

スポット3 梶原景時ゆかりの地:しとどの窟
つづらおりの険しい山道の道の両脇には石灯篭と石仏が並び、昼間でも人気はなく、ひっそりとした場所で、下った先にししどの窟はあります。


窟には仏像がいくつか安置され、上から細い滝が流れているので、その音が窟に響きとても神秘的な場所です。

石橋山の戦いで敗れた源頼朝が、わずかな供回りを連れて逃れ、身を隠した場所が、ここ「しとどの窟」です。大庭景親軍は徹底した探索を行い、梶原景時が窟に隠れている頼朝一行を発見します。「最早これまで」(もう限界だ・・おしまいだ・・・)と自刃しようとした頼朝に対し、景時は「助けるので、戦いに勝利した際には自分のことを忘れないでいてほしい」と伝え、なんと頼朝を見逃します。しかし大庭景親は、なおこの窟が怪しいと自ら中に入ろうとしますが、景時は「私を疑うのか」と詰め寄り、頼朝は九死に一生を得たのでした。
なぜ景時は頼朝を見逃したのか、そのはっきりとした理由は分かりませんが「梶原氏は源氏に仕えていたため、その情によるもの」や「頼朝の堂々とした姿に感銘を受けた」など諸説あるそうです。のちに景時は頼朝より重用されることになりますが、それは頼朝がこの時の恩を忘れていなかったこともあったのかもしれませんね。
📍神奈川県足柄下郡湯河原町鍛冶屋

スポット4 梶原景時ゆかりの地:建長寺
鎌倉の中心である鶴岡八幡宮から鎌倉街道を北へ進むと鎌倉五山の第一位、臨済宗建長寺派の総本山である建長寺があります。

その建長寺では毎年7月15日、「施餓鬼会*(せがきえ)」が2回行われています。※施餓鬼会とは、生前中の悪行により餓鬼道に堕ちた飢えと渇きに苦しむ死者の霊に食物を施し、供養するためのものだそうです。
一つは「三門施餓鬼会」でもう一つは梶原景時の亡霊を弔うための「梶原施餓鬼会」です。これは建長寺が開かれて間もない7月15日、いつも通り「施餓鬼会(せがきえ)」を行われ終了した直後に武者が現れたそうです。武者はもう会が終わったことを知ると大変残念がり帰ろうとしました。しかし大覚禅師は、その武者を呼び止め、改めて施餓鬼会を行ってくれたのです。その武者は感謝の言葉とともに、「われは梶原景時の霊である」と述べ、姿を消したそうです。それ以来、建長寺では施餓鬼会とは別に梶原施餓鬼会が行われるようになったそうです。
📍神奈川県鎌倉市山ノ内8

今回は、初代鎌倉幕府執権北条時政と重臣梶原景時のゆかりの地をご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。
次回もお楽しみに。

※記載しているコラムの内容には、諸説あることを申し添えます。

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