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自分ができる最高の仕事を形にしていく[蓮華草元町工房]

自分ができる最高の仕事を形にしていく[蓮華草元町工房]

ものづくり
ことづくり
匠の風景

今号の現場
【職種】家具職人
【匠名】蓮華草元町工房 内田勝人
【場所】横浜・新山下

丁寧に、じっくりと、思いをこめて。
手仕事を生かしたものづくりの現場を紹介するコーナー。
今回は、親子三代は使い続けられるといわれる
横浜家具。横浜開港から150年以上の時を経て、
今も技術や文化を継承し、オーダー家具製作・
家具の修理を行う「蓮華草元町工房」へ。

横浜開港とともに、海を越えて持ち込まれた洋家具の修理から“横浜家具”の歴史は始まった。昔から木の文化を育んできた日本の木工技術は評判を呼び、すぐに日本人による本格的な洋家具づくりが行われる。その横浜家具の歴史を受け継ぐ唯一の工房「蓮華草元町工房」には、上質な無垢材がずらりと並ぶ。素材にこだわる理由は「量ではなく、質。グレードの高い木材と対話することで、職人技術もさらに向上し、家具も一番よい状態でご提供できると考えています」と内田さん。また「我々職人は作家ではなく、お客様の思いを具現化するための技術を提供するのが仕事」とも。今日もこの場所で、最高の仕事によって誰かを笑顔にする逸品が生み出されている。


横浜港もすぐ、首都高速狩場線が上を走る新山下の倉庫街に「蓮華草元町工房」はある。創業は平成13年。もともとはファッションデザイナーだったという、異例の経歴を持つ家具職人・内田勝人さんを訪ねた。


天井の高い広々とした工房内には、天然の無垢材が所狭しと並んでいる。一歩足を踏み入れると、そこにはひんやりとした空気が漂い、同時に溢れかえった木の香りが鼻をくすぐる。

時間は午前10時、すでに「蓮華草元町工房」では職人たちが木材と向き合い、作業を進めていた。

まずは内田さんに、“横浜家具”について尋ねてみる。

時は遡って150年以上前の横浜開港時。多くの西洋人とともに、はるばると海を渡り“洋家具”が横浜にやってきた。“横浜家具”は、その西洋人たちが使うために運んできた“洋家具”を修理することから始まったのだそうだ。西洋人たちは、日本人の職人が想像以上に上手く家具を修理することに驚く。それは母国のものより、精度も、スピードも、コストの面でも非常に優れていた。次第に日本人の職人の腕は評判を呼び、修理だけに留まらず、家具づくりまで行うようになる。

では、“横浜家具”とは何なのだろう?…「正直にいえば、横浜家具とその他の洋家具とで大きな違いはありません。その後、日本各地で日本仕様に変化させた家具づくりが行われるようになりますが、ここ横浜ではつくり方を変える必要がなかった。日本仕様に進化させなくてもよい環境だったんです。なぜなら山手地区には多くの外国人が住んでいましたからね。彼らが使用する家具でもあったからです。」

「進化していないというと聞こえは悪いですが、家具をつくる上でいちばんよいスタイルがしっかり確立していたということです。『横浜家具とは?』にあえてお答えするとしたら、それが“横浜家具”なんですね。もちろん技術は継承しつつ、蓮華草元町工房では現代人のライフスタイルに合わせた家具づくりに進化していますけれどね(笑)」。

そう語る内田さん。先述の通り、異例のキャリア話も面白い。子どもの頃からデザインや建築、インテリアといったものに興味を持ち、ものをつくることが大好きだった。洋服が好きだったこともあり、“パリコレで発表したい! ”という夢を抱き大手アパレルメーカーのファッションデザイナーになる。しかし、数年後、大手企業ならではの分業化されたシステムに疑問をもつようになり、退職。休職中に家でぼんやりとテレビを見ていた際に、裸電球の下で黙々とカンナをひく家具職人の様子が目に飛び込んできて“これだ!”と。「布から木に素材を変えて、自己表現をしよう」と決意したという。すぐさま職業訓練校に通い家具づくりに触れ、横浜・元町にある家具屋に就職。なんとその家具屋の工房にいたのが、内田さんに家具職人になることを決意させた、あのテレビに映っていた裸電球の下で作業をする職人だったのだ。「わっ! テレビで見たあの職人さんが目の前にいる、って興奮しましたね。その方は職人の中でもエース、4番バッター的な存在でした。だから自ずと素材もいいものが来るし、いい仕事が来る。それが羨ましくて、黙々と木取り(原木や大型の木材から必要な寸法や品質の木材を製材すること)をしながら、自分もいつかそんな存在になりたいと強く思ったのを覚えています。当時の現場は、家具づくりを教えてくれる人がいなくて、とにかく先輩方のつくり方を盗み見て学ぶ、が全てでした。」


「師匠は倉庫、でしたね。そこには出来上がったものがたくさん置いてあるわけです。完成している家具をバールで壊して、つくり方を確かめたりしたこともありましたよ(笑)。」

その後、十数年の経験を経て「蓮華草元町工房」を設立。「横浜家具の火を消したくない思いと、若手育成も兼ねてこの工房をつくることを決めました。150年以上続く横浜家具の技術を継承し復興・繁栄させること…さらに若い職人にとって自分という存在が少しでも肥やしになれば…そんな思いも含めて、畑の肥やしになる花“蓮華草”を屋号にしたんです」。

家具づくり・家具の修理をする上で、内田さんがこだわっていることは?と尋ねると、すぐさまこう答えてくれた。「お客様がいちばん。お客様が決めた枠の中で自分のテイストを出していくことをずっと心がけています。職人は作家ではありません。お客様の要望を的確につかみ、それに全力で応えること。要望を具現化するための技術を提供するために自分たちがいると思っています。自分ができる最高の仕事を形にしていくだけ…それに尽きます! 」。


こちらは、お客様のもとに運ばれる日を待ちわびるテレビ台。内田さんが手がけた作品だ。やさしい木目、すっきりとしたライン、無垢材の美しさを表現するためのシンプルなデザインにこだわりつつ、そこに寄木やガラス細工などの遊び心を加えた。

製作途中のこちらは、「ポスチャー」と名付けられたスツール。長時間のデスクワーク用としてつくられたロッキングチェアだ。この椅子は、工房のデスクとして働くスタッフの「肩・腰が痛い」という声から生まれたという。

こちらは、横浜家具の特徴のひとつである優美なラインのクッション椅子。超薄い背もたれに恐る恐る身を預けると…心地よくしなって、腰への負担を軽減するよう緻密に計算されている。


最後に内田さんに今後の夢を聞いた。…「国境のない家具をつくっていきたい。洋家具・和家具といったカテゴリーに縛られない、お客様に喜んでいただくことだけを考えてつくる自由な家具。横浜の港から海外へ。150年以上前に海を越えて入ってきた家具をルーツに持つ“横浜家具”が、今度は海を越えて異国の地の暮らしにそっと溶け込む家具になる…そんな存在になったら最高ですね」。

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