神奈川・立ち呑み文化放談Vol.5 「境界とエクスチェンジ」
2015.5.8 TEXT:井上 明子 PHOTO:西野 正将
藤原ちから|Chikara FUJIWARA
編集者、批評家、BricolaQ主宰。1977年高知市生まれ。12歳で単身上京し、東京で一人暮らしを始める。以後転々とし、出版社勤務の後、フリーに。武蔵野美術大学広報誌「mauleaf」、世田谷パブリックシアター「キャロマグ」などの編集を担当。辻本力との共編著に『〈建築〉としてのブックガイド』(明月堂書店)。徳永京子との共著に『演劇最強論』(飛鳥新社)。現在は横浜在住。演劇センターFのメンバー。また、ゲームブックを手に都市や半島を遊歩する『演劇クエスト』を各地で創作している。
捩子ぴじん|Pijin NEJI
1980年秋田県出身。2000年~2004年まで大駱駝艦に所属し、麿赤兒に師事する。舞踏で培われた特異な身体性を元に、自身の体に微視的なアプローチをしたソロダンスや、体を物質的に扱った振付作品を発表する。近年は歌や踊りが生まれるシステムを観察し、個人の体や生活に蓄積された要素を取り出して、現代都市の民俗芸能としてコンテンポラリーダンスを発明しようと試みている。2011年、横浜ダンスコレクションEX審査員賞、フェスティバル/トーキョー公募プログラムF/Tアワード受賞。ジョセフ・ナジ、FAIFAI、ASA-CHANG&巡礼、岡田利規などの作品に出演する。
http://pijinneji.blogspot.jp
今回は、綱島駅から徒歩2分の立ち呑み下田商店を舞台に、舞踏家・振付家の捩子ぴじんさんをお迎えしての放談です。ナビゲーターの藤原ちからさんは、マニラでの滞在制作から帰国翌日に駆けつけてくれました。待ち合わせ時の藤原さんの顔色が紫色だったことを心配する捩子さんでしたが、ご自身も京都~韓国~福岡へリサーチの旅を終えてお腹を壊しているとのこと。そんな絶不調のお2人でお送りする立ち呑み文化放談Vol.5のテーマは「境界とエクスチェンジ」。
藤原ちから(以下 藤原):いやぁ、なんかもう、日本はクーラーの中にいるみたいですよ。
捩子ぴじん(以下 捩子):今日、だいぶ暑い方ですけどね。
藤原:今日のテーマなんですけど、捩子さんといえばダンスと演劇の境界を越えていたり、韓国と日本を行き来したりもされてるので、”境界”というイメージがありますよね。また、国や境界を越えて行った時に、たとえば通貨の両替のように何かをエクスチェンジすることで生き残りを図ることになりますよね。捩子さんがそうした境界やエクスチェンジについてどう考えていらっしゃるのか、聞いてみたいと思って設定しました。
捩子:まず“境界”の話でいうと、ちからさんもマニラ帰りで本調子じゃないみたいですけど、僕も一週間前からお腹を壊してまして・・・。韓国や京都でさんざんいろんなものを観てきたのに、情報の消化不良なんですよね。京都で現代美術、韓国では密陽アリラン祭を観て、途中福岡に寄って友人のダンサー、手塚夏子さんに会いに行ったら、その晩に高熱を出し、それまで蓄えていたものを全部トイレに捨ててきました。だからここ一週間、内臓の境界がない状況で過ごしているんですよ。今日はぬか漬けを食べて、乳酸菌をとって、内臓をちょっとずつ分節化しながらしゃべっていこうかなと。
藤原:なるほど(笑)
じゃあ、とりあえず乾杯しますか。
捩子:そうですね。
乾杯~~!
藤原:それにしても、移動ってけっこうしんどいですよね。
捩子:特に僕は目の前にあることしかみえないたちなので、別の土地で滞在制作している時に東京のことを考えられないんですよ。今東京ベースの作品をつくってはいるんだけど、韓国でやったことを東京に持って帰って活かせていないんですよね。
藤原:僕も全く同じ状況です。マニラにいる間は、日本のニュースを見る気にもあまりなれなくて。
捩子:だからとりあえず、今はここ、綱島を満喫しますか。
藤原:そうですね(笑)
捩子:しょっぱなから病気の話ばっかりですけど、去年の6月に釜山で滞在制作した時にストレスで尿道炎になったんですよ。釡山の人って、いつも誰かと一緒にいて自他の境界が緩い気がするんですよね。一人で考え事をしたい時にもカタコトの日本語で「AKBの誰が好きだ?」とか言って部屋に入ってくる人がいたり。それが結構辛かったです。その時に自分と他人の境界を意識させられたし、自分の境界をなくすための人工的なテクニックが、僕にとってダンスだったりするんだろうなぁっていうことを思いましたね。僕は、場に奉仕するとか、動きに巻き込まれるとか、自分が自分じゃなくなるための手続きとしてダンスを楽しんでいるんだなぁ、と再認識しました。
藤原:ああ、ちょっとわかる気がします。マニラには、オーストラリアやアメリカの人も来てたんですけど、みんな社交的だから、例えば1人でカフェで作業してると必ず話しかけてくれるんですよね。それが自然な感じで。で、フィリピン人はというと、おしゃべり好きだからやっぱり話しかけてくる(笑)。でも体調を崩した時は、もう英語は話したくない、ひとりにさせて、って思いましたね・・・。
捩子:フィリピン訛りの英語って、何ていうんですか? フィリピングリッシュ??
藤原:フィリピンには7100以上の島があって、母語も172あるらしいんだけど、マニラで使われているのはタガログ語。そのタガログ語訛りの英語はタグリッシュっていうんですよ。オーストラリア訛りに比べるとタグリッシュを使う人たちの英語はすごくわかりやすい。フィリピンでは英語は公用語だけどネイティブじゃないから、英語になるとちょっとよそゆきになるらしいんですよね。よく、その状態が辛くなることがあるらしくて、それをイングリッシュ・パニックって呼ぶそうです。
さて、そろそろ二杯目に行きますか?
捩子:いいですね。僕は、ガリハイボールっていうのが気になっていたんですけど・・・
藤原:じゃあ僕は、ウーロンハイで。
捩子:えー!ガリってこのガリだったんだ!勝手に、ガリッとしたきつめのハイボールのことかと思ってた(笑)
訛りについて ― 土方巽と寺山修司
藤原:さっきの続きで、フィリピンの人は国策もあって英語がよくできるんですよね。つまり常に2つ以上の言語を持っている感覚があって。それってすごいですよね。
捩子:ちからさんは高知出身ですよね?土佐弁と標準語って全然違いますか?
藤原:あ~、それは全然違いますね。秋田弁と標準語はどうなんですか?
捩子:僕は、ちょっとした時にイントネーションにでるらしいです。「かー(ka-)」が「がー(nga-)」になったり。でも、訛りと標準語っていう分け方はわかりやすいけど、本当は訛りが先で標準語の方が後だから、表現的にはおかしいですよね(笑)
藤原:確かに。ところで、捩子さんと同じ秋田出身の舞踏家 ―土方巽の訛りについて、以前に捩子さんは、いったん訛りがぬけた人の言葉だって指摘してましたよね。
捩子:はい。土方さんは積極的に東北を取り入れた人だと思うんです。モダンダンス出身のとても頭がキレる人で、「舞踏」っていうまったく新しいタームをつくっちゃったわけですよね。それはすごい発明だし、本当に考え抜いて、そして突破したんだなと思います。
方言の話ですけど、土方さんの葬儀の香典返しが、土方さんがしゃべっている声が録音されているレコードだったそうなんですね。それをある会社がCD化したものが、今結構な高値で取引されているんですけど、それを聴いた時に、「あ、これ、つくってる秋田弁だ」って思いました。個人的には、それまで神格化していた土方さんを少し距離をおいてみれるようになって、自分自身も、“舞踏”をやるのではなくて、オリジナルなものをつくっていっていいんだって思えるきっかけになったんですよね。
藤原:なるほど。ちなみに、同じ東北出身の、寺山修司はどうですか?
捩子:寺山さんのは、つくっている訛りではないと思います。現地の人と比べると聞き取りやすくなっているタイプではありますけど、
それは土方さん的な操作とは違う気がします。なんか僕、あの身体のうごきと、津軽の訛りとが色々混ざってる話し方、すごく好きな んですよね。
藤原:もしかしたら、今日のテーマ ”エクスチェンジ” にも絡んでくるかもしれないんだけど、ある土地にいるといろいろなものを吸収するし、周りの人と話したりすることで言葉も少なからず影響を受けていくじゃないですか。いろんな土地の痕跡が個人の中に残っていると思うと面白いですよね。
メディアとしての演劇
捩子:ちからさんが今回マニラに行ったのは、演劇クエストの滞在制作だったんですよね?
藤原:はい。TPAM2015をきっかけにあちらのディレクターに呼んでもらって、KARANABAL2015という若いフェスティバルに参加してきました。実はこのフェスティバル、3年計画らしいんですよ。今年はその初年なのでリサーチに重点を置いて、マニラで日々撮リ貯めた映像とか現地でインタビューした話をつなぎあわせて、短い作品としてプレゼンテーションをしてきました。
捩子:へぇ~、ところで、演劇クエストの最初のインスピレーションってなんだったんですか?
藤原:きっかけは井土ヶ谷にあるアートスペースblanClassからの依頼だったんです。「なんかやってみない?」っていう(笑)。小さい頃、ゲームブックをよく読んでたので、それを外でやったらおもしろいかもなって思ったのが最初ですね。だけどマニラでは治安の問題もあるし、同じことはたぶんできないと思っていて、街をみて、人に会って、話を聞いて、そこから組み立てられればいいかなぁと。だから形式にはこだわってないんですよ。
それで、共通点なのかどうかはわからないんですけど、捩子さんが最近よく“メディア”っていう話をされていますよね。実は僕も「演劇クエストはメディアだ」と思っているんですよ。僕自身が編集者だからかもしれないけど、演劇クエストを介していろんな人とコミュニケーションがとれたり、あるいは色んなものをギャザリングして、パッケージして編集するものだと思っているから。捩子さんはどういう意味で“メディア”という言い方をしてるんですか?
捩子:昨今、いわゆるメディアがメディアとして機能していないですよね。リテラシーが必要とされるというか。だからこそ今、演劇がその役割を担うことができるんじゃないかと思っているんです。僕は、今世の中で起こっていることが自分の身体に影響していないわけないって考えてるんですけど、劇場で演劇作品を観たら、世の中のことがわかるみたいな、単純にそういう意味でメディアと言ってます。
藤原:ああ、今の世の中を映し出すものとして。
捩子:そう。例え何も考えないで生きていたとしても、身体には何かしら記述されているはずで、もちろんそのまま舞台上でみせたとしても伝わらないけど、それを引き出すための演出があるだろうと思っているんです。少なくとも僕はそれに注力したいという気持ちです。
実際僕がコンテンポラリーダンスシーンを必至で追いかけている2003-4年頃、「今世の中では何が起こっているんだろう」っていう漠然とした感覚が自分の中にあったんですよね。観に行った作品自体は、社会的イシューに言及しているものでも、政治的メッセージを扱っているものでもないんですけど、それを観ることで今世の中に起こっていることを知る感覚が、観客の僕の中にあったんですよね。だから当時のコンテンポラリーダンスのムーブメントは、メディアとしての役割を担っていたんじゃないかなって思うんです。当時の僕には、STスポットに行くと何かがわかるみたいな感覚があったんですよ。
藤原:それすごいですね。STスポットに行くと、現代日本の何かがわかる、みたいな?
捩子:そう。本当にそんな感じでした。でも今はダンスではなく、演劇がその役割を担っているんじゃないかなっていう感覚がありますね。
藤原:最近、鴻英良さんの「猿の演劇論」を受講したんですけど、そこで、鴻さんが「古代ギリシャの演劇の役割」について話されていて、それも、今まさに捩子さんが言っていた意味でのメディアに近いと思います。たとえばアテナイの市民に「今スパルタに攻められているけどどうする?」みたいな内容の演劇を見せたり、近親相姦についての倫理観を示したりして、観た後にみんなで議論するという、まさにメディアですよね。
捩子:それに通じる話題だと思うんですけど、実は僕、韓国には、密陽アリラン祭という祭を観るために行ったんですよ。そこで密陽百中ノリっていう伝統行事のデモンストレーションを観ることができると聞いて、本祭にいけないかわりにデモを観てきたんです。密陽アリラン祭のエンディングは、河から吹き出る霧と、川の奥にある山肌、その山の頂上に寺があってライトアップされてて、レーザー照明がそれらと共演する壮大なマルチメディアショーになっているんです。そのレーザー照明とともに、植民地時代に日本軍によって虐げられた朝鮮民族が密陽の自警団によって救われるという内容の寸劇が入るんですよ。もちろん日本軍役もでてきて、地元住民を射殺する長いシーンもある。
それを観たとき、最初はプロパガンダ演劇みたいなものかと思ったんですけど、福岡に戻ってそのことを友人の手塚夏子さんに話したら、「健全なナショナリズムと不健全なナショナリズム」の話になったんです。それでいうと韓国は健全、日本は不健全ということになるんですけど、なるほどなって思いました。ギリシア演劇の話もそうですけど、自分たちが過去に陥った凄惨な歴史を、演劇にして何度も観ることによって消化していくというプロセスを辿っているわけです。だから決してプロパガンダではないんですね。演劇それ自体がメディアだということにも繋がりますけど、そういった演劇をちゃんと観るということ、それは反日教育とかではなくではなく、必要なプロセスとして今なお、演劇が要請されているということだと思うんです。逆に日本はどちらかというと見ないようにするとか「まあいいじゃん」って言って年ごとにリセットする能力に長けているというわけです。ものすごく簡単に言ってしまうと、韓国やギリシャシアの場合は、見たくないものも見るための仕掛けとして演劇があるということですかね。
藤原:そういう意味では、チェルフィッチュの岡田さんが最近取り組んでいる作品は、割とそういうことを意識しているのかもしれないですね。「見たくないものをどう見せるか」ということ。
捩子:このプロセス、日本でもやったほうがいいのかな。でも誰も観ないだろうな・・・。なんか、日本のことなかれ主義って、ある意味ラテンっぽいですよね(笑)なんでも「まぁまぁ」ですませちゃう感じが。
藤原:それ、どこからきたんだろうね。「見たくない」感じは戦後だろうなって気がする・・・。
捩子:日本人って、誰も決めなくても物事が動くようにもっていくのがうまいじゃないですか。
藤原:そっちはたぶん古くて、たとえば『忘れられた日本人』(宮本常一 著)にでてくる対馬の長老の話は、まさにそういう感じですよね。ある議題について話し合っているはずなんだけど、議論ではなく「昔こんなことがあってのぉ・・」みたいな思い出話を延々として、いつの間にか結論がでているっていう。
捩子:いろいろと向いてないことしてるんだよ、日本人は。ディベートとか、民主主義とか。
藤原:実際、グローバルな資本主義が入ってきて、その要請で国家的に経済発展しなきゃいけないとか、ディベートうまくないとダメみたいに思わされてるとも言えるよね。でも「特に決定しない」感じが日本の良さだと言ってみたところで、あるスピード感の中で決定しないと物事が進まない社会に入れられている感もあり。そういえばマニラから帰る時に、アメリカ人に「I miss you」って日本語でなんて言うのかを聞かれて、しばらく考えて、「ない」って答えたんだけど、あります???
捩子:う~ん・・・
藤原:有名な話で夏目漱石が ”I love you” を「月が綺麗ですね」に訳したって言われてますよね。”I miss you”も、日本語の古語だったら、むしろ和歌とかに託して伝えていたんじゃないかと。だから最低でも五・七・五が必要で、できれば、五・七・五・七・七あるともっといいかな、みたいな(笑)。
捩子:長いな(笑) 長いし何言ってるかわかんないから ”i miss you” でよくない?
藤原:ってなるでしょ(笑)気持ちを表すのに 五・七・五・七・七をいちいち必要とする民族だったら、そりゃグローバルな国際競争力とかなんとかの世界じゃ置いていかれるだろう。しかしやっぱりそう簡単に「I miss you」とは言いたくないわけですよ。
舞踏との出会い
藤原:話は変わって、捩子さんがなぜ舞踏に出会い、大駱駝艦に入ったか、というところから現在にいたるまでのインタビューを拝読したんですけど、まるで「転がる石」のようですよね(笑)
捩子:笑
メディアの話にもリンクしますけど、例えばお能では、「この能役者の舞」ではなく、それまで連綿と受け継がれてきたある芸能がその能役者の身体に書かれているという感覚があると思います。それと同じで、僕じゃなくて「僕の身体の上に書かれたこの芸能がある」っていう感覚、それが身体がメディアとしてあるっていう感覚なんですけど、密陽百中ノリにピョンシンチュム(病身舞)っていう演目があって、自分1人では歩けないような96歳のおばあちゃんが、おんぶされて出てきて、数分だけひょこひょこっと踊って帰っていったんですよ。それがすごくよくって。齢をとってくると、ダンサーっていうよりも、その人の歴史や、やっている芸能、過ごしてきた時間が全部身体に書かれたものになってみえる。だからダンサーなんだけど、ダンサーがやっていることじゃない、つまり「私じゃない」っていう感覚になる。その感覚は、僕にとってすごくいいものなんですよ。すぐに思いつくのは大野一雄さんですよね。大野さんの身体には大野さんの自我が上書きされている。だからやっているのは大野一雄であって、大野一雄でないという感覚がある。きっと、そういう領域まで到達して知れる感覚があるんだろうから、そこまで長生きしたいなって思いますよね。
藤原:なるほど。それは、捩子さんが出発点でいきなり舞踏のコアなところに飛び込んでしまったっていうのが大きいんじゃないかな。大駱駝艦は捩子さんが入った2000年にはすでにかなり歴史化されていたとも言えると思うんですけど、もしかしたら、大駱駝艦を通して身体表現の歴史にタッチできる、そういう感覚があったんじゃないですか。
捩子:そうかもしれないですね。舞踏のテクニックって何かと言うと、自分じゃないふうに動くシステムをどうやってつくるかっていうことがポイントになってくるんですよね。簡単なところで言うと、「右手を上げる」ではなく「右手が上がる」、「立っている」ではなく「身体が置かれている」、「歩く」ではなく「足を運ぶ」とか、単なる言い換えだけど、それによって変わるんですよね。そういうふうにして「私じゃない」状態にどうやって自分を置くかは、一つのテクニックであり、舞踏の特徴だろうなと思います。だからそれが影響しているんでしょうね。
藤原:そもそも捩子さんがそこにフィットしたのはなんでだと思います?
捩子:なんででしょうね・・・
大駱駝艦の公演を観に行って、その日のうちに履歴書を書いて送ったんですよね。深いところでは何かあるんじゃないかとは思いますけど、当時はそんなことは関係なく、僕にとってはコスプレだったんですよね。単純に、あれになりたい!っていう。
藤原:コレだー!みたいな?
捩子:うん(笑) だから、コスプレですね。それは間違いない。
藤原:あ、ちょっと、レモンサワー頼んでもいいですか?
捩子:僕はじゃあ、ビールで。あ、あと茶碗カレーが100円だったんですよ。それも食べたいです!
ダンスって、たわいのないものであってほしい
捩子:さっきのギリシャや韓国の演劇のあり方にも少し繋がるんですけど、僕、もともと根底にある資質というか、癖のようなもので、「嫌なものもみせたい」っていう感覚がある気がするんですよ。
あるエピソードがあるんですけど・・・
ある日、電車の優先席に座っていたんです。僕は、もし目の前に必要な人が来たら譲るというスタンスで、空いていれば優先席に座るタイプなんですけど、その日はガラガラだったので、座って文庫本を読んでいました。そのうちに電車が混んできたんですが、文庫本に集中しすぎて気付かなかったんです。そうしたら「ちょっと」という声がして、ぱっと前をみたら、僕の目の前にはおばあちゃんが立っていたんですよ。その隣に40代後半くらいのご婦人がいて、その方が「ちょっとあなた、ここは優先席ですよ」と言うわけです。それで、「あ、すいませんでした」と言って、もちろん席を譲ったわけなんですけど、その時に僕、何をしたと思います??
藤原:えー・・・・。わかんないなぁ・・・。舌打ちとか??
捩子:うーん、近いかもしれない。やりたくてやったんじゃなくて、勝手にやってしまって自分でもビックリ・・・みたいなことなんですけど、その時に足が悪い演技をしちゃったんです。
藤原:あ~・・・
捩子:自分の中に、なんかそういう欲求があって、それは結構作品にも出てるなぁと思うんです。癖みたいなものなんですけどね。使命感めいたことを言って、いろんな国で作品をつくってはいるけど、創作の根本にあるのはこういう気分なんだというのを実感して落ち込みました。でも、落ち込みましたがあきらめました(笑)
藤原:それが自分なんだ、みたいな?
捩子:そうそう。それで何が言いたいかというと、自分が誰かの作品を観に行って感銘を受ける部分っていうのが、つくっている人のそういう部分というか・・・。そこに非常に心を動かされるんですよ。うまく言えないんですけど、最近そういうもののことを「使えないもの」って言ってるんです。そういう「使えないもの」だからこそ、利用もされずに済むっていうか。でも「使えない」ってあんまりいい言葉じゃないから、もうちょっといい言葉を発明しなきゃいけないんだけど。
藤原:「使えない」、ね。
捩子:そう。その続きでダンスの話をしたいんだけど、まずは密陽アリラン祭の話に戻すと、マルチメディアショーの寸劇の最後のシーンで、韓国旗が川面と山面に、物凄く巨大に映し出されて密陽アリランの大合唱になるんですよ。そこまではナショナリズムなんだけど、最後はそれをネタにみんなで踊りだすんです。僕が観た時は、オバちゃん達が舞台上に飛びこんで行って、オッケチュム(肩踊り)を勝手に踊ったりしていたんですよね。
藤原:へ~~~!!!
捩子:その時のそのオッケチュムは、ナショナリズムでもない、ただノリみたいなものがあるだけだと思うんですけど、ダンスってそういう「使われないもの」を扱うべきだっていう気がするんです。
藤原:ああ。
捩子:ナショナリズムさえも、もはや音頭でしかないっていうか。たわいのないものなんだけど、ダンスってそういうものであってほしいなぁって・・・。
ここで、カレーがはこばれてきました。
藤原:お!すごいね!家庭のカレー的な。
今後の展開
藤原:そういえば、もうすぐ赤レンガ倉庫で新作公演をされるんですよね?。
捩子:そうなんです。今回は僕が主催なので、いろいろと考えますね。本来自分がおもしろがれるポイントは、はからずも起こってしまったこと、いわば事故みたいなことなんですけど、それだと300人がみて10人しかおもしろくないと思うんですよね。ただ、その10人には、泣いて帰るくらいの衝撃を与えられるかもしれないけど(笑)
藤原:すげーささってる~、みたいな(笑)
捩子:そうそう(笑)でもあとの人はみんな何が起こったのかわかんない、みたいな。そうしたいわけじゃないんですけれど。
捩子:それと、今僕が関心をもっていることの一つに、見る・見られるという関係性から外れてダンスが成立するためには、どういう状況があるのかを考えて、それを実際にやるということなんです。僕は、人が人を見るっていうその関係性が演劇だと思っていて、それはすごくいいなと思ってるんです。でもダンスは、その関係性自体ではないんですよね。僕は今まで、その関係性からうまれる身体の反応を扱ってきました。もしもダンスをこのまま扱い続けるのであれば、その関係性から外れたいっていう気持ちがどこかにあるんですよね。ダンスってどっかで人が見てなくてもいいって感覚がある気がします。だから、わかりやすい例でいうと、台風の目に向かって歩いて行って体全部巻き込まれるとか、そういうことを実際にやって、発明していきたいんです。しかもそれを、1人でやるのでなく、何人かで共有するというのがいいと思ってるんですよね。例えばみんなでインフルエンザにかかって40度の熱を出して、その時の身体の状態を共有するとか。
藤原:危険な……。でも風邪ひくと、不思議と自分の身体を意識させられるよね。
捩子:そう、僕じゃないみたいな感じがすごくする。高熱だして震えてるとかもしんどいんだけど楽しい、みたいな(笑)
藤原:やるかどうかは別としても、日頃の行いを意識する機会にはなりますよね。
捩子:そうそう。それで、僕と同じ熱量でこういうことに付き合ってくれる人を募集したいと思っていて、集まったら3年間限定で活動しようかと思ってるんですよ。
藤原:カンパニーをつくるの?
捩子:うん。そういう人たちで集まってカンパニーつくるのもいいかなと思って。今は新作をつくることよりも、そっちのほうに関心があるんですよね。とはいっても、急に新作をつくりたくなるかもしれないけど、それはそれでいいよね。
藤原:もちろん。でも3年間限定なのはどうして?
捩子:やっぱり集団って大変ですよね。だんだん疲弊してやめていくとか、すごく嫌じゃないですか。
藤原:そのカンパニー、超楽しみ。
まあ、捩子さんは「転がる石」だから(笑)
捩子:笑。なるべく坂道がないことを祈ります・・・。
藤原:でも「転がる石」の比喩は一般的には、転がっているうちにだんだん角がとれて丸くなるっていうことだと思うんですけど……、捩子さんはそうじゃないかもしれないですね(笑)
完
ここからはお店の情報です
今回いただいた料理はこちら
そして今日のオススメは、
よーく味の染みた肉じゃが!
立ち呑み 下田商店
神奈川県横浜市港北区綱島西1-6-4
TEL:045-593-6437
営業時間:16:00~24:00(L.O.23:30)※日曜も営業してます
アクセス:東急東横線綱島駅西口 徒歩2分