People Landscape in KANAGAWA|廃校にひかりを灯す 芸術祭 “ひかり祭り” — 藤野町に学ぶサステナブルな地域活動
Interview & Text:井上 明子 Photo:西野 正将
私が、藤野町(現・相模原市緑区)の存在を知ったのは、友人に誘われて訪れた3年前のひかり祭りでした。同時期に周囲の何人かがその祭を話題にしていたこともあり、そのうちの1人と車を出してでかけたのです。過疎化により廃校になった旧牧郷小学校を会場に開催される“ひかり祭り”は、音楽フェスともアートフェスとも言い切れず、さらに言えば、地元住民のハレの場 すなわち“祭”の様相も呈していて、数あるフェスティバルの中でもひときわ異彩を放つ存在でした。そして何よりも藤野という未知の里山が神奈川の北西端にあることを知った衝撃は大きかったです。その後、独特な切り口で知られる雑誌・Spectaterで特集が組まれる等、細々と、でも着実にある層にむけて藤野町の魅力が紹介されてきました。
それらを通して、この町には“トランジション藤野”という集まりがあり、持続可能なライフスタイルを追求すべく自発的なコミュニティが育まれ、様々な課題に取り組んでいるということを知りました。また、そこから生まれた“地域通貨萬(よろづ)”、リトルプレス“フジノぼん”、そして”藤野電力”などのムーブメントがこの町のアイデンティティをさらに際立たせていることもつけ加えておきます。今回は、そんな藤野の不思議な魅力に後押しされ、100%自然エネルギーを使ったフェスとしても知られる“ひかり祭り”をきっかけに、フォトグラファーの袴田和彦さんと、藤野電力の小田嶋電哲さんにインタビューをしました。
場所:牧郷ラボ(旧牧郷小学校)内 藤野電力事務所
※藤野町は市町村合併のため現在は相模原市緑区とされていますが、記事内では、地元の人やこの町を知る人にとって馴染みの深い古くからの呼称・藤野町と統一し表記させていただきます。
廃校に希望のひかりを灯す芸術祭 “ひかり祭り”のはじまり
ー まず最初にひかり祭りがはじまったきっかけを教えてください。
袴田和彦(以下H):現在ひかり祭りを運営しているメンバーで第1回から関わっている人はいないんです。だからこの祭を初めた嶋田力(つとむ)さんたちから聞いた話になってしまうんですが、この牧郷小学校が廃校になった後に、力さん・直子さん夫婦が現在の牧郷ラボ(※アートスペース・シェアアトリエ)をたち上げたんです。でもそれは、地元の人からすると東京から芸術家がやってきて、何か始めたらしいという印象でしかなかったので、自分たちの活動をもっと知ってもらいたいという意味で、ひかり祭りを始めたんです。
ー 2003年に牧郷ラボとしてこの校舎を再利用し始め、2004年8月にはひかり祭りがはじまっていますね。もう少し、牧郷ラボが始まったいきさつを教えてください。
小田嶋電哲(以下O):力さんたちは、藤野に限らずアーティストが滞在制作できる場所をあちこち探してたそうなんですが、この旧牧郷小学校に出会って一目惚れしたみたいでしたね。想像するに、天気のいい昼間に、校庭に続くスロープを登って、パッと広がるピンク色の校舎とこの景色に魅了されたんでしょうね。なんとか口説いて実現したって言ってたかな。
O:元々この小学校は行政がつくった小学校ではなくて、土地の人たちが必要に迫られてつくった学校なんですよ。土地も誰かが提供したもの、建物もみんなで建てたもの、そして先生も都内からみつけてきて運営していた、全部が手作りの小学校だったんですよね。要は寺子屋の延長ですね。
H:1934年の伊勢湾台風で一度建物が飛んじゃったらしいんだけど、その頃は本当に近くのお寺さんで授業してたらしいですよ。
ー そうなんですか!
O:だからこの建物が2代目なんだよね。もう55歳なんだね。
ー ところで、ひかり祭りの名前の由来ってなんですか?
O:これも噂だけど、光を扱うアーティストが中心だったからじゃない?
H:発起人の力さんが映像作家でもあって、仲間にライティング系の作家が多くいたのも影響してるのかも。でも、ライトショーのイメージ以外に「廃校に希望のひかりを灯す」っていうテーマがずっと根底にあるんですよね。
ー なるほど。”ひかり”って抽象的な言葉なので、いろんなふうに受け取ることができますしね。牧郷ラボは現在どんなアーティストや団体が利用しているんですか。
O:今いる部屋が藤野電力の事務所で、その他にはギタリスト、ライトショーをやるOVERHEADSというチーム、自然育児友の会っていうNPO法人、空間デザインをする人、あとは音のアーティストとかもいます。何をやっているかというと、おのおの好きなことをやってますね(笑)
H:今言ったみたいなベースはあるけど、それ以外にもいろんなことをやってる人が多いかもね。
ー 彼らと外部から呼んだアーティスト、地元の人々などが混ざりあって“ひかり祭り”ができあがっているということですね。初期の頃と今とを比べて、変わったことって何かありますか?
H:規模感はどんどん大きくなってるけど、スタイルはあまり変わらないんじゃないかな。最初は地域の人が来やすいようにということで、入場もフリーだったけど、年々大きくなるにつれて、無料ではさばききれなくなってしまったっていうのはある。(※入場料は3日間通し 3,500円)
ー それでも激安ですよね…!最初、この金額で3日間も楽しめるの?!っていうことにびっくりしたのを覚えてます。
O:そうでしょ~。とか言って(笑)
H:もうちょっと高くしたら少し楽になるよねっていう話もあったけど、どうしてもやっぱり…。
小田嶋さんと藤野町の出会い
O:僕、初めて藤野に来たのはひかり祭りがきっかけなんですよ。
ー 最初の印象はどんなでしたか?
O:東京のレコード屋でフライヤーを見つけて行ったんですけど、やっぱりびっくりしましたよ。その頃のフェスってだいたい想像がつくようなものが多かったんだけど、ひかり祭りはアーティストも聞いたことない人たちだったし、この町の存在も知らなかったから興味が湧いて、妻と子どもを連れて行ってみたんですよ。そしたら、小学校の校庭でおじいさんが歌ってたりとかして…(笑)ちなみにそのおじいさんはシーゲル堂の横山茂さんだったんだけどね。
ーそ、それは衝撃ですね…!小田嶋さんが東京から藤野に移住することになったのはこの体験がきっかけなんですか?
O:すぐに移住ってことになったわけではないけど、大きなきっかけではありますね。
ちなみにその日の帰り道、駅に戻るバスがなくて困っていたら、暗闇の中に一台の車が現れて、見ず知らずの僕らを駅まで乗っけてくれたおじさんがいたんだよね。さらに駅でも終電がなくなっていてまた途方に暮れていたら、駅に娘さんを迎えにきたこれもまた通りすがりの人が、近くの旅館まで送って行きますよって車に乗せてくれた。そうこうするうちに、その娘さんが駅から来て助手席に乗ったんだけど、僕らには気にもとめずに今日の出来事をいろいろ話していて、家について車を降りる時になってやっと「そういえばこの人たち、どなた?」って(笑)経緯を説明すると娘さんは「それじゃあごきげんよう」って去っていったんですよね。その姿を見て「なんて自然なんだろう」って思いましたね。だから初めての藤野は、その一連の印象が強烈に焼き付いています。
ー その出来事から、移住するまではどのくらいの期間があったんですか。
O:4年くらいかな。
その後も、休日になればドライブに行き、妻がルドルフ・シュタイナーの思想に影響をうけていたので、シュタイナー学園を見学に行ったりもしてたんです。それとは別に、その頃妻の実家に暮らしていたこともあり、さすがにそろそろ出なくちゃということで、家を探し始めていたんですよ。でもすぐに藤野とはならなくて、沖縄とか茨城とかいろいろ探して、暗礁に乗り上げた頃に、妻が突然Yahoo!不動産で藤野に家があるのを見つけ、しかも安いって言うのでみに行って、結局そこに決めちゃったっていう感じなんです。
ー いろんな紆余曲折もあり、最終的には藤野に呼ばれたって感じですね。
O:そういう感じはありましたね。
袴田さんと藤野との出会い
ー では、袴田さんが藤野に移住することになったきっかけも教えてください。
H:僕の場合、藤野を知ってから移住するまでは早かったですね。初めて藤野に来たのは東京でアシスタントからカメラマンになるくらいのほやほやしてる頃で、友達に誘われてUAのライブを聴きに藤野に訪れたんですよね。
ー UAがまだ藤野に住んでいた時期ですね。何年前くらいになりますか。
H:7年前くらいかな。“Cafe Restaurant shu”でのライブだったんですけど、なんでこんなに小さいところで?って思った記憶があります。途中でUAが、子どもがいるから一回帰りますって帰ったりしてたな(笑) 客席には藤野の友達がいっぱいいて、UAとのいろんな掛け合いがあったりして、「あー、こんなライブおもしろいなー」って思いましたね。
ー なんて贅沢な!
H:すごく楽しくて、終わった後にオーナーのシュウさんと話して帰った記憶があります。
ちょうどその頃田舎暮らしを考え出した時期で、それがきっかけというわけではないんだけど、その2ヶ月後に東京の生活を終わりにしようと決めたんです。とりあえず畑ができるところを探していたので、その頃知ってる2つの単語“パーマカルチャー(※人間にとっての恒久的持続可能な環境をつくり出すためのデザイン体系。Parmanent+Aguriculture)”と“ウーフ(お金のやりとりなしで、「食事・宿泊場所」と「力」そして「知識・経験」を交換するしくみ)”で検索したら、僕がやりたいことができそうな所が長野の安曇野にみつかって、そこに電話をかけたんです。ただ、冬季で人がいなくて、何度かけても繋がらなかった…。そんな中、別の友達に誘われて藤野にいくことになり、またシュウさんの店に寄ってみたんですよ。
ー 2度目の再訪ということですね。
H:そう。その時は、シュウさんが大根を抜いて、それをUAに渡してたんだけど「そんなに持って帰れないから」とかいう2人のやりとりを、僕らは席から観てたんですよね。そしたらシュウさんと目があって「大根いる?」って言われて(笑)「あ、じゃあ…」って一応もらったのがシュウさんとの再会。そこから自分が畑をやりたいと思っている話をして、冗談で「僕ここで働きたいなー」って言ったら、最初は「うちお給料なんて出せないよ」とか言ってたんですけど、最終的に「じゃあ、いつくる?」ってなっていたんですよ(笑)
それで明後日からってことで手伝い始めて、結局住み込みで2年半くらいお世話になりました。それが移住のきっかけですね。そこでシュウさんから畑仕事を学んだり、夜なんかはおもしろい話を聞いたり、たくさんの人を紹介してもらって、来る前よりも来てからの衝撃の方が大きかったですね。
ー 袴田さんのほうは、かなりトントン拍子で進んで行ったんですね(笑)それにしてもお2人のお話から藤野の方々のいい意味での警戒心のなさと、寛容さが伝わってきました。ひかり祭りと袴田さんは、そこからどう繋がっていくんですか?
H:シュウさんのお店がひかり祭りに屋台を出してたので、第5回には、僕も出店者として参加したんですよね。それが一番はじめといえばはじめですね。その後発起人の力さんがひかり祭りを卒業することになった第7回から運営の方に関わるようになりました。
藤野電力とは?!
※ 藤野電力HP
ーちなみに、小田嶋さんは、藤野電力の代表ということでいいんでしょうか。
O:藤野電力は会社みたいな組織ではなくて、単に好きな人が集まって、来たりこなかったりっていう感じのチームなんです。
ー サークルのようなイメージですか?
O:そうそう
ー 自然エネルギーにもいろいろある中で、太陽光発電を選んだのはどうしてですか。
O:そこに選択のプロセスは存在しないんですよ。自分で電気つくれたらいいねっていう話から、ネットで探したら太陽光パネルが売っていた。他にもあったけど、簡単にポチっとできない値段だった。でも太陽光パネルはポチっとできたっていうことなんです。
ー ひかり祭りの電力も牧郷ラボの電力も、全て藤野電力の自然エネルギーでまかなっていると聞いたんですが。
O:まず、ひかり祭りについては100%自家発電で第8回からやってきました。でもそれを藤野電力の電気でって言うとニュアンスが違うんですよね。藤野電力がひかり祭りで何をやったかと言ったら、会場の電源のレイアウトをコーディネートしただけの話で、その電源を持ってきてくれた人はまた別にいる、っていう具合にいろんな人が関わってる。それに、実は僕らも最近気付いたんですけど、ひかり祭りは第1回から100%ではないけど、自家発電でやっていたみたいなんですよね。
H:ただ大々的に発表してなかっただけみたい。
O:校舎や体育館のブレーカーを落として自分たちの電気に差し替える、その敢えての部分をやらなかっただけで、別途増やす電源としては全部再生可能エネルギーを使ってた。
ー なるほど。新しく世代交代があったけど、その部分のマインドは自然と共有されていたってことですね。逆にすごいことだなぁと思いました。ちなみに、今日藤野の町をあちこちまわってみたら、至る所に充電ステーションをみかけました。あれも藤野電力の活動の一つだと思うんですが、どんな目的つくられたんですか。
O:さかのぼってきっかけから話すと、古い中古の太陽光パネルを大量に譲り受けたんですよ。その活用法として牧郷ラボを100%自家発電でやろうというプロジェクトを始めたんだけど、最初に断っておくと実は全然うまくはいってなくて、むしろ今暗礁に乗り上げてると言うのが正直なところなんですよ…。予想よりも発電量がたりず、バッテリーが3日もたつと空っぽになってしまうことがわかって、その状態でランニングさせるとバッテリーを消耗させてしまう。だから牧郷ラボに関しては100%というのは実現に至ってないんです。
でも最初にラボを自家発電にしようと思った目的は、一つには震災みたいな非常時に地域の人の避難場所になれるということ、もう一つは、平常時にも余った電気をみんなで使ってもらえたらおもしろいことができるんじゃないかということ。その平常時の使い方の一つとして、充電ステーションがあるんですよね。人の集まる主要な拠点にそれがあれば、電気自転車やバイクで遊びにきた人が、ちょっとお茶をしてる間に充電ができるねって感じで盛り上がったのがはじまりかな。
ー もともと電気とは無関係な仕事をされていた小田嶋さんが、藤野電力をひっぱっていくことになったのには、どんな背景があったんですか。
O:それには2つのステップがあって、2008年にトランジションタウン活動が藤野で興り、その中にはいろいろな活動があったんだけど、その一つとして「自分たちの電気は自分たちでつくろう」ということを言い出したグループがいたんですよね。これは面白そうだなと思って、当時部長だった森部を辞めて、その輪に加わったのが始まりですね。
ー 森部の部長だったんですね…! ということは、きっかけは純粋な興味ということですか。
O:そうだね。それで実は僕、最初はひかり祭りに巻き込まれないよう意識的に気をつけてたんですよね。なんか大変そうだから(笑)でもだんだんと巻き込まれはじめたのが、さっき言ったもう一つのステップなんですよね。
100%再生可能エネルギーで開催した 第8回 ひかり祭り
O:僕は第7回まではお客さんとして、手伝えるところは手伝うっていうスタンスを保ってて、第8回も最初は「うーん…」と思いながら遠巻きに話を聞きにいっているだけだった。でもその年はちょうど震災のおきた年で、話し合いの場でどうするんだって感じになってたんですよね。
H:そうだね。震災後、九州の方に避難するメンバー、藤野に残るメンバー、東北にいったメンバーと様々いて、終わりのみえない福島の状況をずっと観てる状態が続いて…。でもみんな頭の中のどこかで、ひかり祭りのことは考えていて…って感じだったかな。そんな中メーリングリストで、力さんからのメッセージが流れてきて、その文章にみんな触発されて動きだした感じはあったかな。
O:そうだね。そのときに100%自家発電の話もでてたけど、まだ自分がやるとは言ってなかった。
H:でも、これやるとしたら誰かたてないと絶対できないよって話にはなってたよね。
O:確か、そのミーティングが終わった後「誰かやりませんか?」ていうメールが流れてきたんだよね。それを翌日会社の喫煙室で読んだ時、衝動的に「あ、俺やりたい」ってう気持ちがでてきた。でも一方で「…これはまずいぞ」っていう気持ちもあった。ここで手をあげちゃったら仕事と両立できないっていうのも直感的に感じてたからね。だから、この両方の気持ちを一週間眺めてから決断しようと思って時間をおいてみた。それで一週間後、まだ自分の決心は固かったから「よし、じゃあやろう!」と思って、「俺、やります」って返信したの。
ー これまで頑なに一線ひいていたひかり祭りに、がっつり関わる決心をしたんですね。その小田嶋さんをつき動かした原動力ってなんですか。
O:僕の中で今のこのライフスタイルを選択したのは、電気うんぬんじゃなくてやっぱり祭だったんだよね。祭をつくりあげる人たちの輝き方にすごく憧れた。ステージに立つあの人たちの心は今どうなってるんだろうか、みたいな演者さん・裏方さんへの憧れも強くあった。そこに電気っていう役割がでてきて、電気がなかったら裏方さんの機械も動かないし、演者の音もならない…そういう関係性にすごくときめいたんだよね。そこからはもう流れで、案の定会社も辞めるはめになったし、案の定大変で…
ー 予想通り(笑)
H:割と、ひかり祭りでいろんなことが変わっちゃった人多いからね。僕の場合は独身ってこともありどうにでもなるけど、てっちゃん(小田嶋さん)が手を挙げてくれた時は、正直みんな「うわー、てっちゃん決めたなー…」みたいな感じだったよ(笑)
ー でも、言い換えればそれに匹敵するほどの魅力があるということですよね。
O:そうだね、あの瞬間のあの役割には誇り高い魅力がありましたね。
ー そして結果的に、100%再生可能エネルギーでフェスを開催するという目的が達成されましたよね。
O:当初は、藤野電力のチーム内でもひかり祭りに関わることにすごく抵抗があった中、僕だけがひかり祭りの方にも顔を出して1人でガリガリやっている状況だったんです。でもだんだんと自然にひかり祭りと藤野電力の活動が重なっていって、祭の当日は藤野電力の仲間たちがあっちこっちで自発的に動いてくれたんですよね。それで祭が終わってみると「藤野電力がひかり祭りの電源を担いました」って言われることに全く違和感がない形におさまっていた。
戦争中は疎開先だった藤野町、芸術家が集まるその魅力とは…
ー 日本で初めてトランジション活動が興った場所が藤野だとききました。藤野電力を生み出した“トランジション藤野”とは、どのように興ったムーブメントだったんですか?
O:イギリスのトッドネスっていう小さな町で生まれたトランジションタウン活動に、榎本英剛っていう男が偶然居合わせて出会ったんだよね。その経験から藤野を思い出したもんだから、藤野に持ち帰ってはじめた活動なんですよ。
ー ひかり祭りやトランジション活動のように、様々なものが外部から流れ集まってきて、今の藤野ができているってことなんですね。それは藤野が戦時中疎開先だったことにも関わりがあるかもしれないですね。藤田嗣治・猪熊源一郎・脇田和など画家彫刻家十数名が疎開生活を送っていたと聞きました。外部から流れて来るものに、抵抗せず寛容でいられることも、今の藤野があることの一因かもしれません。
O:レオナール・フジタさんたち疎開組を第1世代として、うちらは大きくみると第4世代って言われてるみたい。
ー なるほど。 昨今アートフェスティバルが日本各地で開催されていますが、藤野町で興っていることは、そのどれにもあてはまらない不思議な魅力を感じているんです。当事者としてお2人はどのように感じていますか。
H:以前に藤野町のPVをつくった時、藤野が芸術の町と言われている由縁を知りたくて佐藤純さん(※藤野の長老といわれるアーティスト)にインタビューしたことがあるんです。観光資源がない中で町興しするなら芸術しかない、という中で、行政がお金をだして”芸術の道”というのをつくったりもしていたし、他にもいろいろな構想があったそうなんですね。ただ佐藤さんの話によると、それらは割と冷ややかな目でみられていたみたいなんです。でもある時、アート・スフィアという芸術の助成をしていく活動がでてきて、彼らが最初にやったことが、藤野に住んでいるアーティストを集めることだったそうなんですね。
ー なるほど。1988年に第1回アート・スフィアというアートフェスティバルが開催されていますね。
H:それまで個人個人が生活を楽しみながら自分の作品を生み出していただけだったけど、それを機に、藤野にいるいろんな人と繋がることができたそうです。その出会いの中で「こんなことやったらおもしろいんじゃない?」とか関係性が生まれたことがすごくよかったと言っていました。やっぱり人と人が繋がって、友達になって、その中から生まれてくるものっていうのは大きくて、それはひかり祭りにも通じるものがあると思います。
O:うん。そこじゃないかね。藤野のすごいところは、人と人との繋がりがあらゆる点に及んでるところ。それにみんな他人を尊重できて、素で繋がりあって、人を否定しないでやれる強さを持っている。
H:あと「こんなことやってみたい」ってことをポロッと言うと、年上の人たちが「どんどんやりなよ!」って言ってくれるんですよね。それにそういう感覚は、次世代の人にも連鎖して受け継がれていきますよね。
ー お話をうかがっていると、ますます藤野が魅力的な町に思えてきました。最後に、ひかり祭りにまだ訪れたことのない人たちに向けて何か一言いただけますか。
H:牧郷小学校に通っていたおじさんたちが大事にしている小学校で開催する祭なので、彼らと一緒に準備の段階から関わっていると、僕らも回を重ねるごとにこの小学校がどんどん好きになってくるんですよね。だから来てくれる人にもそういう感覚が伝わればいいなと思ってます。あとは、来てくれた人がよく「ここの自然がすごくいいんだ」とか「お野菜がおいしい」とか言ってくれるんですけど、地元の人が普段気づかない藤野の魅力を、お客さんが気づかせてくれるっていうところも大事に思ってます。
O:好きなんだよね、きっと。地元のおじさんたちも。人が集まってくれて賑やかになってくれて、自分たちのふるまうもので喜んでくれるっていうのを本当に楽しんでやってるよね。
きっとね、心地よく受け止めてくれる人や何かに出会える!遊びにきたらいいと思う。
ー ありがとうございます。