演劇とすれ違う——ままごとの過去・現在・未来
海に面した横浜・象の鼻テラスを舞台に『象はすべてを忘れない』(2013年12月1日〜15日の木・金・土・日)を展開中の劇団ままごと主宰・柴幸男。ミステリー小説のような構造の美しさにこだわる彼の作風は、ヒップホップを大胆に取り入れた『わが星』(2010年)に結実し、第54回岸田國士戯曲賞を受賞。現代演劇のスタイルをダイナミックに更新してみせた。まさに新世代の旗手と言っていい存在だが、いっぽうで近年は東京の演劇シーンに対してあえて一定の距離をとっているようにも見える。
そんな柴幸男は今、何を見つめ、何をやろうとしているのか。その過去・現在・未来を聞くインタビュー。
Intervew&Text by 藤原ちから
Photo by Masanobu Nishino
協力:象の鼻テラス
□プロフィール
藤原ちから(Chikara Fujiwara)
http://bricolaq.com/page/BricolaQ.html
1977年生まれ。編集者、フリーランサー。パーソナルメディアBricolaQ主宰。高知市に生まれ、12歳で単身上京し東京で一人暮らしを始める。以後転々とし、出版社勤務の後、フリーに。雑誌「エクス・ポ」、武蔵野美術大学広報誌「mauleaf」、世田谷パブリックシアター「キャロマグ」などの編集を担当。プルサーマル・フジコ名義で劇評等も書く。「CoRich舞台芸術まつり!」2012年、13年審査員。辻本力との共編著に『〈建築〉としてのブックガイド』(明月堂書店)。徳永京子との共著に『演劇最強論』(飛鳥新社)。現在は横浜在住。
柴幸男(Yukio Shiba)
http://www.mamagoto.org/
1982年生まれ、愛知県出身。「青年団」演出部所属。「急な坂スタジオ」レジデント・アーティスト。
日本大学芸術学部在学中に『ドドミノ』で第2回仙台劇のまち戯曲賞を受賞。2010年『わが星』で第54回岸田國士戯曲賞を受賞。
何気ない日常の機微を丁寧にすくいとる戯曲と、ループやサンプリングなど演劇外の発想を持ち込んだ演出が特徴。全編歩き続ける芝居『あゆみ』、ラップによるミュージカル『わが星』、一人芝居をループさせて大家族を演じる『反復かつ連続』など、新たな視点から普遍的な世界を描く。
あいちトリエンナーレや瀬戸内国際芸術祭への参加、岐阜県可児市での市民劇の演出、福島県いわき総合高校での演出など、全国各地にて精力的に活動している。
「ある」と「やる」の中間へ
藤原:今日は、柴幸男と劇団ままごとの過去・現在・未来を聞きたいと思います。まずはその「現在」である、この象の鼻テラスでの話から始めましょうか。ままごとは今年の春にここで何度かいろんな俳優たちと実験的な作品をつくって発表し、さらに9月にはオーディションで集めたメンバーでフラッシュモブ的な作品をつくりましたよね。今回の『象はすべてを忘れない』はそうした蓄積の上で生まれるパフォーマンス(?)になるんでしょうけど、これまでのプロセスを観てきて、すごく魅力的というか、風通しがすごくいいな、と思ったんです。やってるほうとしてはどう感じてますか?
柴:「ぼんやりしてるな」って春の時点では思いました(笑)。意識的に始まりと終わりをぼんやりさせて、極力、うっとうしさを無くせないかって考えてたんですけど。
藤原:春は開始時刻もアバウトだったしね。「じゃ、そろそろ始めましょうか」みたいな(笑)。枠が無いっていうか。
柴:今年は長期間、(瀬戸内国際芸術祭に作家として招聘されて)小豆島に滞在してたんですけど、そこで「やる/やられる」の関係と、「ある/見る」の関係について考えてたんですよ。演劇って「やる」瞬間に生まれて、観るほうはそれを「やられる」という受動的な状態になりますよね。でもこの象の鼻テラスだと普通に通りすがりのお客さんがいっぱい来るから、やられたくない人に対してもやっちゃうわけじゃないですか。
藤原:巻き込んでしまうよね。
柴:それは演劇と切っても切れない要素ですよね。でも美術作品や映像だと、ここにある象のペリー(椿昇が制作した巨大なオブジェ)もそうですけど、「ある」っていう存在そのものを表現にしている。「ある」ものに対しては、興味があれば見ればいいし、見たくなければ気にしなくていい。そういう「ある」と「やる」の中間のような不思議なものがつくれないかな、と徐々に考えるようになったんです。
藤原:インスタレーションとパフォーマンスの中間ということにもなるのかな。
柴:その時に、自分たちがふだんイヤだと感じるかどうかのラインは絶対に守ろうと。僕自身だけじゃなくて、参加してくれてるメンバーの感覚も大事なので、メンバーに「どう思います?」って投げかけて、それを打ち返してもらって、打って返す、打って返す……という稽古をやってます。だから今回はトップダウンの形式は取ってないんです。
藤原:いろんなチームを組んで、各班で制作するスタイルでやってますよね今回は。
柴:そうですね。例えばスイッチって呼んでいる短いパフォーマンスが発動する仕掛けがあったり、他には音楽、歌、ラジオ、映画撮影、紙芝居……さらにフラッシュモブみたいな作品もあります。それからデザインという不思議なチームがあって、たまたま来た人が何か残してくれるような仕掛けをつくったりとか。ツアーもありますよ。もう盛りだくさん(笑)。
藤原:コントロールしきれないでしょう(笑)。
柴:どう並べて構成するかが僕の仕事でしょうね。ラジオドラマもCMもニュースも、台本は全部俳優たちが自分で書いてますから。あ、象の鼻カフェのソフトクリームのCMとかあるんですよ(笑)。
演劇とすれ違う
藤原:ここのソフトクリーム美味しいよね。……えっと、普通の劇場なら、まず携帯電話の電源を切って席に座る、みたいなマナーが共有されてるけど、ここではそういう約束が存在しないじゃないですか。土日は子どももいっぱい来るだろうし、たぶんあのスイッチとか押しまくるだろうなあ〜(笑)。
柴:小豆島でも不特定の要素がある場所や時間で「過程」を想定して全部うまくやることを求めるのは不可能なんです、だから個々の作品それぞれの「結果」、瞬間瞬間をクリアしてほしいと言ってたんです。例えば今回もスイッチを子どもに押しまくられた時にどうするかのジャッジは、メンバーそれぞれが作品に、自分の体に作家性を持たないとできないと思ったんです。じゃないと、指示してないことが起きた時に何もできなくなるので。
藤原:そういえば、今のメンバーで集まった最初の日に「ひとりひとりが作品であり、作家であるという自覚を持ってほしい」って話してましたよね。それって、以前の柴幸男という作家の性質からするとかなり意外にも思えるんですよ。だって柴くんはすごく完璧主義的にコントロールするタイプだったじゃないですか。いつ頃から意識が変化したのかしら。
柴:今年に入ってから、劇作家として紙の上で劇を発動させる仕事をしていきたいと思ったんですね。それまでは演出家としての脳みそを使って時間や空間を全部コントロールして「これが僕の演劇です」ってことを言ってたんですけど。でも象の鼻テラスでは、そもそも全体をコントロールすることが不可能ですし、劇場と同じように作品を発表しても面白くないと思ったんです。
藤原:そこで「演劇とすれ違う」っていうコンセプトが出てきたんですかね?
柴:いつもの演劇脳を使って頭からお尻まで「作品」として客席に見せようとすると、壁に閉じ込めているのと同じだから、偶然性がぐっと減りますよね。今回はそうじゃなくて、「やる/やられる」の関係から抜け出して、「すれ違う」ものにしたい。たまたま来た人がふと立ち止まって、いなくなってもいいし、しばらく見てもいい、っていう。だから一瞬見ただけでも成立するようなことをやりたかったんです。
「戯曲」に対する考え方のシフトチェンジ
藤原:いっぽうで、劇作家としての意識も変わりつつあるのかな、と思うんですけど。
柴:そうですね。最近意識しているのは、人間の時間からあまりずらさないっていうか……。
藤原:人間の時間?
柴:例えば1時間なら1時間、劇中の時間と外の時間が同じっていうことです。これまでは『あゆみ』や『わが星』にしても、その時間を伸縮させて一気に包み込む、という共有や共感の仕方をよくしてきたけど、そうすると人間が記号的になってきてしまう。そのやり方は自分の資質には合ってるとは思うんです。でも戯曲には、ある個人的な体験や感情が広い世代や地域の人々の心を動かす……そういう効果もあったよなと思い直して。
藤原:『演劇最強論』(飛鳥新社)のインタビューでも、固有の物語から普遍性を目指したいと語ってましたね。ウェブサイトで読める「ままごとの新聞」でもそんな話を読みました。『朝がある』(2012年)の頃からそういう傾向が見えてきたのかな。
柴:あの頃はちょうど、それまでのやり方での普遍性を抜きにして人間的なことを書けないものか、と迷ってた時期でした。それは『わが星』とか『あゆみ』の戯曲を高校生が演じたりしてくれるのを観て、さらにこないだもニューヨークで『わが星』が別の人の手で上演されていたのも観たんですけど……。
藤原:つまり自分の戯曲を他人が演出しているのを観たわけですね。
柴:……紙の中に劇を埋め込める人が劇作家だと今は思うんですよね。でも僕が今まで書いてきたものは「台本」でしかなくて、そこに演出家が劇性を埋め込むことで初めて演劇として成立してたんだな、と分かって。そういう戯曲を書くのは劇作家の仕事ではない、と思うようになったんです。誰かがこの戯曲を上演してみようっていう時に、本で読んだだけでも劇性というか、変な雰囲気というか、現実のやりとり以外の演劇的なねじれみたいなものが生まれるのが「戯曲」と呼ばれるべきものだと。
藤原:でも『わが星』は岸田國士戯曲賞を受賞して、「戯曲」として高い評価を受けたわけでしょう?
柴:自分で言うのも変ですが、解せないというか。あの戯曲をそのまま上演してもダメだってことは僕は思ってるんですよね。
藤原:これはどうやらすでに「過去」の話に入ってるようですけど、『わが星』が初演された2010年前後というのは、柴幸男の特質である「構造」へのこだわりがものすごく先鋭化してた時期ですよね。つまりある構造やルールをばーんと提示することで人を感動させるような作品をつくっていた。そっちの方向で戯曲の完成度を高めて、究極で言うと設計図のようなものとして戯曲をつくっていく可能性もあったはずですよね。でもそっちに行かないでシフトチェンジしたということ?
柴:単純にネタ切れしたってのもありますけど(笑)。まあ、どうもそれだけ掘ってもどうにもならないと思ったんですよね。それまでは「人間」は後回しにして、まず「時間」と「空間」を書いていた。構造の結晶として、究極は丸と三角と四角が移動するだけでも感動が呼べるはずだったんだけど(笑)、結局、一個の人間が大切なんだと思うようになったんです。心、とまでは言わないけど。そのために縛りを設けて書こうかなと思ってるんですよ。役が交換されないとか。時間が飛ばないとか……あまり守れてないんですけど(笑)。
藤原:こないだ観た小豆島の『赤い灯台、赤い初恋』では、かつて島に残ったある男と、島を去っていった元恋人という、かなり具体的な人間の物語を書いていたけど、それはすごく普遍的な人間のありかたを感じさせるもので、すごく感動して海の前で泣いてしまったけども、あれを観た小豆島の町長もすごく喜んでブログに感想も書いていたよね。でもだからといって、あの物語は島の人を喜ばそうとして媚びているようにも思えなかったし、あくまで言葉と物語で勝負しているというか、劇作家としての柴幸男の力を強く感じました。
つながっていく物語
藤原:そういった戯曲に対する意識の変化って、実は柴くん個人に留まるものではないような気がしているんですよ。というのは最近「物語」をあらためて捉え直そうとする動きが同時代的にありますよね。象徴的なものとしては、
F/T(フェスティバル/トーキョー)13のテーマが「物語を旅する」だったり。そういう同時代的な感覚はありますか?
柴:全然あります。構造を突き詰めていくやり方が通用しなくなってるという危機感は個人的には2010年頃からだいぶあったので、すでにある作品の再演を続けながら、シフトチェンジしなくちゃっていう思いはありました。そして震災の後くらいからですかね、個人的に「物語が見たいな」と思うようになったんです。前は、直線的な時間の流れなんてベタだし古いような気がしていたから、もっと面白い時間構造が見たかった。でも今それを疑わざるをえなくなって、今やったことが来年結実するのかどうかも不安になったから、(ソーントン・)ワイルダーのように広大な人生の時間を扱うよりも、明日、来年、10年後くらいのスパンでのお話を欲するようになったんです。つながっていくお話が必要だと。
藤原:つながっていく話?
柴:『わが星』とか『あゆみ』はブロック単位で時間が行きつ戻りつする。『反復かつ連続』もそうですね。でも例えば童話とかおとぎ話って、時間が戻らないじゃないですか。倒しに行った鬼の回想シーンが入るとかもないし(笑)、100年後の時間に飛んだりもしない。
藤原:その意味では、浦島太郎はちょっと斬新だよね。
柴:斬新だけど、あれも浦島の視点からはズレないし、基本的に前に進んで行く。今はそういう「私」の視点が果たして10年先に本当につながるのかどうかが知りたい。自分でも不思議ですね。
演劇のミュージックビデオ化
藤原:確かに、同時代的な不安の共有は感じます。でも震災の影響だけでもない気がしますね。
柴:あ、じゃあミュージックビデオの話、します?
藤原:ミュージックビデオ?
柴:いや、細かい話だからやめとこうかな……。
藤原:や、面白そうだから聞きたいです。
柴:えっと、それはマームとジプシーの作品を観て強烈に自覚したというのもあるんですけど、ミュージックビデオみたいだ、っていうのは、時間が劇性を持って流れると人は高揚したり感動したりする。音で時間の流れを描いたのが音楽です。僕の作品の中でも圧倒的に支持されたのは『わが星』と『反復かつ連続』なんですけど、その2つの作品はどっちも役者が舞台上の時間をつくれないようになってるのがポイントで、同時並走する時間に合わせなきゃいけない。つまり音楽的な時間の動きがすでに決められている。「演劇のダンス化」だったのかなって今、僕は考えているんですけど、演技が振り付けとして決まってるんですよ。通常の演劇では、俳優が時間をつくらないと劇が流れなかった。そこをコントロールするために、例えば(平田)オリザさんは秒数で演出をつける、みたいなことをしたわけですけど……。
藤原:3秒間(ま)を置く、とか演出家が指定したわけですね。
柴:……僕の場合、音楽を一緒に並走させたわけです。音楽は確実に時間を進めてくれるから、リズムの拍数でカウントをとれる。もちろん瞬間だけ音楽の劇性を借りるのはいちばんアウトなんですけど。
藤原:泣かせたいシーンでメロドラマな音楽を、みたいなね。
柴:それは明らかに意図が透けて見えすぎるので、拒否反応がある。じゃあいっそ音楽を固定して、それに合わせて展開をつくってパフォーマンスしようと。それが「ミュージックビデオ的な発想」だったのかなってこのあいだ考えたんです。それはやっぱり快感だと思います。ミュージカル的な高揚と演劇的な演技の両立とも言えるかもしれません。ただそのとき、俳優が単体で時間を生み出すことができなくなるんじゃないかって思ったんです。
藤原:ミュージックビデオのように先に音楽的な構造が決まってると、俳優の演技や台本の言葉もその楽曲的な構造に奉仕する部分が大きくなって、その「外」に出ていくことが無理、っていうことになりますよね。
柴:演出家としても、音楽からズレることが我慢できなくなりました。でもそれってやっぱり俳優が劇性を生み出すことを無視してる気がしたんです。
藤原:てことは、俳優に期待するものが変わってきてるということ?
柴:変わったと思います。真っ当になってきていると思うし、厳しくなってるとも言えるかもしれません。演技に時間が流れてるかどうかっていうチェックをするようになりましたから。前は音楽があったから、3分なら3分の劇性じゃなきゃいけなかったけど、今は劇性が生まれてさえいれば2分50秒でも3分10秒でもいい。そうやってだんだん、ミュージックビデオ的なやり方が自分に合わなくなってきて、それよりも前に前に展開し続けるものが見たくなってきました。でも展開し続ける音楽って、快感は薄いんですよね。繰り返してシンクロする音楽の方が気持ちよく感じやすいと思うんです。
藤原:究極はボレロがそうだけど、ミニマルに反復されるものの気持ち良さってあるよね。
柴:今のポップミュージックは繰り返しが基本で造られてますよね。Aメロから始まったのがずっと展開し続けて一度も繰り返しがなく終わる、なんていうのはポップじゃないんでしょうね。でも今は、ポップミュージック的な繰り返しの構造に頼らない演劇、戯曲をつくりたいと思っています。
藤原:小説にも近づいてるのかな。小説も一般的には反復がなくて、どんどんつながって物語になっていくでしょう。
柴:基本形の戯曲にも、近づいているのかなと思っています。
柴:自分に向いてるかどうかは疑問ですけどね。でも、展開し続けるものから面白いものが生まれるという予感があるんですよ。
ホームをつくる
藤原:ところで、最近あんまり東京にいないのは、もちろん意図してのことですよね?
柴:依頼されてやることはあったけど、劇団の単独公演として東京にぶつけたいほどのプランがなかったんです。あと同時に、東京でやる意味をそんなに感じなくなってるというのはあります。観きれないくらい劇団がある中で、いちばん面白い劇をつくることができるならやってたと思うけど、そういう才能は自分にはないみたいですね。
藤原:いやいや、それは謙遜でしょう。
柴:いえ本音です。勝機もなさそうだし。向いていないことは、やりたくないんです(笑)。
藤原:勝ち戦しかしないっていう?(笑)まあでも誰だって全勝はできないわけだから、疲弊するよね。東京にいるかぎり競争にはいやおうなく乗せられるだろうし。
柴:新作をばんばん打って東京の人に「面白い」って言ってもらえるのもいいんだけど、今は、これまで1回も演劇を観たことのないような人に観てもらうのが嬉しい。しかも東京を拠点としてツアーで地方を回るっていうより、知らない土地に腰を据えてやるのも面白いんじゃないかとは数年前から言っていて、やっと今年、小豆島でも象の鼻テラスでも長期間やらせてもらえました。今は劇場で短い期間で創作することよりも、どこかに滞在して、僕らのことを町に知ってもらう、みたいな感覚に興味が出てきてます。
藤原:お互いに知り合っていく時間があるということですね。
柴:小豆島の250世帯の人たちに認めてもらう感覚を獲得するのはすごく大変で、嬉しさも厳しさも違う。でも、本当に楽しかったんですよね。
藤原:秋に僕が行った時には、もうずいぶん島に溶け込んでる感じがあったよねえ。
柴:一期だけじゃぜったい無理だったと思います。春、夏、秋とやったからこそ、どんどん居やすく、パフォーマンスしやすくなっていった。僕ら自身も町も変わったというか。春はやっぱりお互い固かったし、まだ僕らも島にとって客というか外部の人間だったんですよね。でもよそ者感覚だと遠くのことまで考えられない。秋には、人をもてなすモードに自然になっていましたね。
藤原:そういえば小豆島もこの象の鼻テラスも、海で繋がってるよね。港町というか。
柴:迎える感じがありますよね、港には。小豆島では、埠頭にずっと滞在していたから船に乗ってやって来た人はみんなお客さんに見えるんです、だから埠頭に立ってパフォーマンスすることがすごく自然でした。出て行く人を見送るにしても。だから今回の『象はすべてを忘れない』でも、僕らはホームの感覚になって、さらに遊びに来た人たちにちょっといい気持ちになってほしいんです。
藤原:稽古を重ねていくうちに、だんだんホーム感が出てきてるんじゃない?
柴:いろんなモノを置いたり絵を描いたりしてるのも、自分たちの領域を広げて、たまたまカフェに来てる人たちを迎える気持ちになりたいからで。最初は壁に紙1枚貼るのもメンバーは遠慮してたんです。図々しくなる、ってことじゃないんだけど、場慣れしていく感覚は大事だと思う。ここを劇場にしたいから。でも閉じ込めて劇場にするのではなくて、ここにいる人たちの振る舞いと仕草で瞬間的に劇場にしたい。そしてそれが消えて日常に戻ったり……。
藤原:あ、「消える」っていう。
柴:小豆島で他の美術作品を観て悔しかったのが、人がその場にいなくてもいいということ。演劇は、どうしても人間が目のにいることのイヤさがあって、「やる/やらない」の関係はどうしても圧迫感が生まれやすい。でも逆に、演劇でよかったと思えたこともあったんです、それは消えることもできるってこと。幻のように作品が現れて、消えることができる。そのパフォーマンスの幻みたいな良さを実験としてやってみたひとつがあのスイッチなんですよね。うまくいくかどうか分からないですけど。
未来のままごと
藤原:最後に何か「未来」の話はありますか。
柴:そうですねえ……。小豆島での秋会期が本当に夢みたいで。踊って歌って、人を連れて歩いてるだけで(笑)、お金がまあ少しだけどもらえて、町の遊び人みたいな、呼べば盛り上がるチンドン屋みたいな一味になってたんですよね。
藤原:ままごとがついにチンドン屋に……(笑)。
柴:小豆島では最後のほうは、端田新菜さんの紙芝居と、名児耶ゆりさんの踊りと、楽器演奏とかで1時間くらいのパッケージができて。そういう日常的なパフォーマンスを続けながらどこかの町に滞在しつつ、年に1本がっつり新作をつくる、みたいなのが夢ですね。いったんある場所でつくったものは、そこに行けば、微調整だけでいつでも稼働できるようになるし。だから劇場用の新作を年間3本つくることで自分を更新していく……みたいなことは今はひとまずはやらなくていいかなあ。
藤原:いつきくん(端田新菜の息子)もメンバーにいるから、子連れの旅芸人が移動してる感じがします。
柴:劇団で活動しているところに子どもがいるっていうことも大きいんですよ。再現性がないし、コントロールできなさすぎるから、昔の感覚だったらイヤだったと思います。でも今は彼の存在がすごくありがたいですね。一緒にいるだけで演劇的な視野がどんどん広がっていく。小豆島でも彼はいるだけで人気者だったし、ただ存在することが立派な仕事になっていました。一番、仕事していたかもしれません。だからまず彼を連れていくことを決めたのが演出の第一段階だった(笑)。
藤原:ああ、確かに、いつき君がいるだけで何か起きてる感じはすごくあった。象の鼻にいる時もそうで、見ていて何かが解除される感じがする。
柴:いっぽうで、戯曲でまた東京に何か仕掛けたいとも思ってます。まだ全然見えないけど、今は修行期間です。戯曲を見直す時期が、言葉に帰ってくる時代がまた来るような気がするんです。そして、その先頭に立ってるほうがいい目に合えるかなと思ってます(笑)。
藤原:柴くんってなんかそういう鋭い嗅覚、あるよね。
柴:ただの勘なんですけどね…、あと自分にその適性があるかどうかは別なんですよねえ……(笑)。
マグカル編集部後記】
毎回インタビュー後の恒例となっている「おすすめの〇〇」を今回も柴さんにお聞きしてみました。
柴さんのお気に入りは象の鼻テラスの正面に広がる海の景色。特にテラス表の芝生の上から見る景色がお気に入りとの事。
マグカル編集部も休日に行ってみたのですが、テラスから見える海はとても気持ちがよく、
親子ずれやペットの散歩など行き交う人々を眺めていると、まるで舞台のステージを観ているようで、思わず時間を忘れてぼんやり休憩してしまいました。
今の季節はちょっと寒いかもしれませんが、対談中にも話に出てきたアイスクリームを片手に景色を眺めてのんびりしてみるのもいいかもしれませんね。