能舞台に専用モニターを設置し、日本語と英語の字幕を映しながら能を上演している中森貫太さん。シェイクスピアを狂言の様式で演じたり現代音楽を舞うなど、ジャンル横断的な表現にも積極的な野村萬斎さん。先日、横浜能楽堂で開催された「能を知る会」での共演を終えたお二人に、日本の伝統芸能である能・狂言の魅力や、今後の活動について語り合っていただきました。
前編では、能・狂言の伝統を守りながら、現代の観客にアピールする新しい試みへの思いなどを伺います。
中森 鎌倉能舞台では字幕を採用していますが、これは、初めてご覧になる方や海外からのお客様に、能をもっと楽しんでいただきたいからです。
今日、能の物語や約束事をご存知の方はごく少数派なので、舞台を楽しむには何かしら手助けが必要です。ただ、動きの意味やセリフなどすべてを字幕にしてしまうと、お客様は字幕を読むことに追われ、舞台を見る余裕がなくなってしまいます。お客様には本来、舞台上で繰り広げられる世界を、想像力を働かせながらお楽しみいただきたいので、字幕はあくまで補助的なもの。まだ実験段階ですが、イヤホンガイドを研究しているチームとも意見交換を行い、より良いものを提供していきたいと思っています。
野村 狂言のセリフは口語体で書かれているので、古語であってもなんとなく分かるものです。ただ、音で聞いただけでは理解できない言葉もあるので、私たちの主催公演ではパンフレットに辞書機能をつけています。例えば「ブモ」。文字で表すと「父母」なので、事前に確認していれば字幕を読まなくても理解できます。ご覧になる方にとって楽しみやすい方法を、取捨選択できるようにしていきたいですね。
中森 現代の日本では、能は「難しい」「面白くない」と刷り込まれている方が多いと思います。学校訪問も行っていますが、先生方や生徒の父兄からして、能をご覧になったことのない方がほとんどです。そんな状況ですから、まずは能に興味を持っていただくことが第一。学校訪問は今後も積極的にやっていくし、字幕のような鑑賞サポートも必要だと思っています。
ただ、舞台上を「分かりやすく」変えてしてしまうと、それは能ではなくなってしまいます。伝統的な形態を保ちながら、皆さんに分かっていただける方法を模索中です。
野村 料理はレシピを変えてしまったら全く別のものになってしまいますが、能・狂言も同じことです。「能楽堂」という伝統的な器を大切に、ときには学校などの施設や薪能のようなオープンエアな空間へも出て行く。そうした場合でも、レシピを守った上で料理を楽しんでいただくことが重要です。
ただ、古典の世界で使う言葉は、日本語であるにもかかわらず、外国語並みにわからない、というジレンマがあります。この点については、字幕をつけたりプレゼンテーション方法を変えるなど能・狂言界も試行錯誤をしておりますので、ぜひ能楽堂へ足を運び、体験してみて欲しいですね。
野村 私は異ジャンルとのコラボレーションにも挑戦していますが、それは狂言の世界と接点を見出せた場合に限ってできることです。
たとえば、現代音楽のジョン・ケージの音楽で舞ったことがありますが、彼は風の音や空の色など自然現象に取材した世界を音楽にしており、それはまさに能・狂言の世界です。また、狂言の様式でシェイクスピアを演じるときは「中世」が共通項。人知を超えた存在、畏怖すべき大きな力、神への畏れなどは狂言のテーマでもあるので、無理なく演じることができます。
では「ディスコサウンドでも舞うのか」と聞かれたら、それはどうでしょう。「絶対にできない」とは言いませんが、デジタルのリズムに合わせた舞を、あえて私たちがやらなくてもいいのかな、と思っています。やってできないことはないと思いますが、それでは狂言の良さが消えてしまう。ポイントは、根底に狂言に結びつくものがあるかどうか、だと考えています。
中森 オーケストラと共演したこともありますが、私たちがオーケストラに合わせて舞うのか、オーケストラが能のBGMを奏でるのか、どちらかが妥協することになってしまうと感じました。時間と予算をたっぷりかけて、オリジナルの楽曲を書き下ろしていただければ別ですが、安易なコラボレーションは難しいですね。
野村 バレエ音楽の『ボレロ』も振り付けましたが、それは『三番叟』という狂言の舞との共通性があるからできること。大切なのは、双方の共通点を見出し、結び付けてお見せすることです。お客様が納得できないような結びつきでは「変だ」と言われてしまいますから。
野村 狂言は「この辺りの者でござる」というセリフから始まることが多いんです。名前も名乗らないし、帝であろうと誰であろうと、貴賎に関係なくみんな「この辺りの者」。能とは真逆の発想だと思っています。
中森 そうですね。能は宗教劇として発達してきたので、神を敬い、仏を敬い、帝を敬う、という発想が基本です。
野村 狂言では逆転現象を描くわけです。偉いはずの主人が失敗したり、使用人である太郎冠者の方が頭が利いたり。夫婦関係でも、男性がだらしなくて女性の方が頼り甲斐があったり。
狂言の世界では、「世の中を俯瞰してみれば、偉そうにしている奴だって“この辺りの者”じゃないか」と捉えることで、批評性を獲得する。人間生活を批評的に見ると、「人間のやっていることなんて、他愛のないことなんだ」と笑い飛ばすことができ、そこにカタルシスを感じていただけるのです。ロクでもない世の中で、ロクでもない人間かもしれないけど、「まぁ、そんなものだよ」と思える。その辺りに狂言の“毒抜き”の効用があるのではないでしょうか。
*狂言「隠狸」 撮影・政川慎治
中森 一つの曲でも、演り方は一通りではないと思っています。考え方次第でいろんな演出があり、いろんな表現方法があるので、それを自分で選択する楽しみがある。例えば、能面の選び方一つで若い女性にも老婆にもなれるので、自分の中で思い描きながら自由に演出できます。それは、映画を撮っている感覚に近いのかもしれません。お客様が自由に楽しめるように曲を料理することも、喜びの一つです。
また、「面白い」と言っていただけるお客様を育てることも、私たちの仕事です。1回見ただけで「懲りた」と思わせず、何度も能楽堂へ足を運び、いろんな人が演じる姿を見て「あの人はこうだった」「この人はこうなんだ」と楽しめる方。同じ素材をいろんな味で楽しめるお客様を育てていくことが大切だと思っています。