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文化・歴史

鎌倉殿とゆかりの地―三浦義澄と和田義盛のゆかりの地をめぐる

鎌倉殿とゆかりの地―三浦義澄と和田義盛のゆかりの地をめぐる

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まってから約半年、鎌倉殿である源頼朝の宿願であった平氏打倒を果たし、源頼朝を中心とする政治システムが始まっていきます。
13人の有力御家人のうち、神奈川県の三浦半島に根ざした三浦氏(三浦義澄)、和田氏(和田義盛)のゆかりの地をご紹介します。

スポット1 三浦義澄ゆかりの地:満昌寺、薬王寺旧跡(三浦義澄墓)、近殿(ちかた)神社

横須賀市にある満昌寺は、開基を三浦義澄の父・三浦義明としていますが、実際の創建は源頼朝と言われています。

源頼朝は、石橋山の戦いに呼応して挙兵し、一連の戦いの中で討ち死にした三浦義明に対して、感謝の意を忘れておらず、義明を開基としました。

本堂の前には、源頼朝お手植えのつつじなどもあり、いかに源頼朝が三浦氏を信頼し、厚く遇していたかが垣間見えます。

近くには、三浦義澄の墓所と言われる薬王寺旧跡や義澄の子である三浦義村を祭神とした近殿(ちかた)神社もあり、三浦氏の拠点だったことが窺える場所となっています。
満昌寺📍 神奈川県 横須賀市 大矢部 1-5-10


近殿神社📍 神奈川県横須賀市大矢部1丁目9−3

スポット2 三浦義澄ゆかりの地:鐙摺(あぶずり)城址

葉山マリーナのほど近く、日影茶屋の道を挟んだ反対側の小高い丘に鐙摺(あぶずり)城があったといわれています。丘を登ると拓けた平地となっていますが、当時を窺い知ることができる形跡はほとんどありません。
城に登る際、馬の鐙を摺るほど急な傾斜を登る必要があったことから鐙摺の名が付けられたといわれています。

この鐙摺城は石橋山の戦いに合流できなかった三浦義澄が大庭軍と戦った際に旗を立て、味方を鼓舞した場所であり、配流された源頼朝の監視役で、石橋山で源頼朝と戦った伊東祐親が預けられ、後に斬首された場所と言われています。また、源頼朝の愛妾で北条政子の怒りを買い館を焼き討ちにされた亀の前が匿われた場所でもあります。
📍 神奈川県三浦郡葉山町

スポット3 和田義盛ゆかりの地:白旗神社(三浦市)

和田義盛の所領であった三浦市初声(はっせ)町和田に初代侍所別当である和田義盛を白旗明神として祀った白旗神社があります。
和田合戦で北条義時に敗れ、鎌倉にある和田塚で一族とともに最期を迎えた和田義盛ですが、その善政を偲び、和田の村民が建立したといわれています。
📍 神奈川県三浦市初声町和田1746

スポット4和田義盛ゆかりの地:浄楽寺

伝承では、源頼朝が父・源義朝の菩提を弔うために鎌倉に創建した勝長寿院が台風により破損した際、和田義盛は北条政子と協力し、現在の地(横須賀市芦名)に移したといわれています。奥州征伐の戦勝祈願を目的としたともいわれており、和田義盛夫妻が願主となり、焼失した奈良興福寺の再建に携わり、後に鎌倉に下向した仏師運慶に制作を依頼したといわれている仏像5体が安置されています。
📍神奈川県横須賀市芦名2‐30‐5


 
三浦氏は、三浦為通が前九年の役の功績により源頼義から相模国三浦を与えられたことにより、その姓を名乗るようになったと言われています。
そして和田義盛は、三浦氏の庶流であり、三浦氏、和田氏ともに源頼朝に重用され、鎌倉からほど近い三浦半島の地で一族は繁栄しました。

しかし、源頼朝の死後、両氏は鎌倉内部の権力争いの渦中で滅亡してしまうのですが、今日でも三浦、横須賀では在りし日の両氏の権勢を偲ぶことができます。

次回もお楽しみに。

※記載しているコラムの内容には、諸説あることを申し添えます。

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