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文化・歴史

鎌倉殿とゆかりの地―番外編

鎌倉殿とゆかりの地―番外編

13人の合議制に名を連ねてはいませんが、平家討伐、鎌倉幕府成立に貢献をした多くの人物がいます。今回は、番外編として、13人以外の人物にも焦点をあて、神奈川県内のゆかりの地をご紹介します。

1人目は土肥実平(どいさねひら)。
平氏を倒すために挙兵した頼朝が、「石橋山の戦い」で敗走した際、頼朝を助けたのが土肥実平です。その忠節から源頼朝の信任を得て、平家討伐の際には鎌倉軍の奉行や吉備三国や長門・周防の守護にも任じられるほどでした。1191年11月に死去した(諸説あり)といわれていますが、もし存命であれば、13人の長老格として参画していたかもしれませんね。

スポット1 城願寺


湯河原駅を降りて、約500メートル、湯河原駅北側の山を登ったところにあります。土肥実平が末永い一族の繁栄を願い、持仏堂を建立したことに由来します。現在の宗派は、曹洞宗(過去幾度か改宗)ですが、土肥実平・遠平(とおひら)親子像、石橋山の敗戦からわずか7騎にて土肥領の真鶴の海岸から安房へ船出(七騎落ち)し、のちに武家政権を建てるに至った偉業を支えた土肥実平の功績を七騎の像に刻み安置している七騎堂や土肥一族の墓など、土肥氏との関係が深いことを伺わせます。

七騎堂

樹齢900年のびゃくしん(文部省指定天然記念物)

城願寺 📍〒259-0305 神奈川県足柄下郡湯河原町城堀252

スポット2 五所神社


五所神社
湯河原駅から南西へ1キロほど行ったところにあります。創立は天智天皇時代(626年-672年)となっており、土肥一族をはじめ、地域人民に崇敬されていました。1060年、五所神社の加護を受け源義家の欧州征討に従った荒井実継(あらいさねつぐ)が戦功をあげたといわれており、源氏にもゆかりのある神社です。1180年の源頼朝の挙兵にあたっては、土肥実平が佩刀を納め、戦勝を祈願する護摩をこの地で行ったと伝えられています。

御神木

五所神社 📍〒259-0304 神奈川県足柄下郡湯河原町宮下359-1

2人目は畠山重忠(はたけやましげただ)。
その教養の高さ、武勇、人柄から「坂東武者の鑑」といわれた人物です。源頼朝が挙兵した際、平家方として頼朝軍と戦っています。その後、臣従して源頼朝方となり、平家討伐・欧州征伐などで大きな功績を挙げます。そして、その清廉潔白な人柄も相まって、「坂東武者の鑑」と誰からも一目置かれる一人となりました。しかし、そんな畠山重忠でさえ、鎌倉の政争に否応なく巻き込まれ、最後は謀反の罪を着せられ、現在の横浜市旭区あたりで北条義時によって討ち取られました。

スポット1 鶴ヶ峰・二俣川古戦場

畠山重忠の子である重保(しげやす)が北条時政の後妻である牧の方の娘婿である平賀朝雅(ひらがともまさ)と酒席で諍いなったことを牧の方が恨み、北条時政に畠山重忠を成敗するように求め、北条政子や義時は「畠山重忠が謀叛を起こすはずがない」と反対しますが、最終的に三代将軍源実朝は畠山重忠討伐の命令を下します。その頃、畠山重忠は「鎌倉に異変があったため至急向かわれたし」という連絡を受け、居城である武蔵国菅谷から鎌倉に向かう途中でした。そして、畠山重忠軍は、鎌倉を出た討伐軍(大将・北条義時)と鶴ヶ峰・二俣川(現在の横浜市旭区)で合戦となりました。わずか百数十騎の畠山重忠軍は、数万の鎌倉軍を相手に奮戦しますが、衆寡敵せず、最後は一族で自害して果てたと伝わっています。
こうして坂東武者の鑑である畠山重忠は討ち取られましたが、多くの坂東武士の不満を買い、後に北条時政・牧の方は鎌倉から追放される大きな要因の一つとなりました。


さかさ矢竹

鶴ヶ峰・二俣川古戦場跡 📍〒241-0021 神奈川県横浜市旭区鶴ケ峰本町1丁目1

数回にわたって「鎌倉殿」にゆかりのある神奈川県内のスポットをご紹介しました。
鎌倉時代は政治の中心として、明治以降は文明開化の象徴として、神奈川県には歴史を司ってきた多くの場所があります。
歴史を感じる名所・旧跡を訪れ、神奈川のさまざまな魅力を感じてみませんか。

※記載しているコラムの内容には、諸説あることを申し添えます。

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